今年度は休学しますた

昨年度からまったく明後日の方向に走り始めていたが、明々後日の方向に走るべく休学を決意し、今期1年間は休学することに到った。引きこもり生活だ!

休学したからといって今までと変わらず、今後も生活できる程度に仕事をして、それ以外の時間はずっと勉強をすることになる。もちろん、その仕事も今までにやったことのないチャレンジングだ。

今までストレートに走ってきた自分としては、一息ついて、自己確立を目指したい気持ちがある。

デザイン、マーケティング、ライフスタイル、掃除、企画、開発、マネージメントなど、学びたいことはたくさんある。Webや本だけの知識では難しいだろうが、色々やってみようと思う。どの分野も、研究的手法と論文、そして実践が重要であることに変わりはない。

危機意識を持ち、感性を開き、見栄を張らず、無借金で、不安定ながらも、素直に生きられたら、自然に幸せだと思う。

今日は新しい年度が始まる4月1日だ!今年度も頑張ろう!

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ウタゴエのP2Pでセンバツ広告野球を放送だそうな

毎日放送、センバツ高校野球の準決勝/決勝をライブ配信 -AV Watch

 配信日時は準決勝の4月1日が、11時〜11時30分/12時〜15時55分(最大延長17時50分)。決勝戦の4月2日が12時〜15時25分(最大延長17時50分)。雨天順延あり。

今回のセンバツは21世紀枠の出場校がまだ残っている。優勝チャンスかも!

21世紀枠は大好物。今年は利府(宮城)が残っている。

選抜高等学校野球大会 – Wikipedia

21世紀枠

2001年の第73回大会から設けられる。部員不足などの困難を克服したチームや、他校の模範となるチームを選出。
(中略)
“他校の模範である事”を根拠に、名門大学へ現役合格者多数、学校全体での「朝の読書」推進、「青少年赤十字部」の活動、生徒のボランティア活動など、野球そのものとは直接関係のない事象により推薦されるケースがあり、「選考基準が曖昧」という理由により非難の声も聞かれる。

今年は、

2009年
利府(宮城)
地域の清掃活動に積極的に参加。運動部員が小学校へ出前授業をしている。生徒が梨農家の手伝いをしている。

彦根東(滋賀)
右翼が左翼より30メートルも短い変形グラウンドという悪条件を、工夫を凝らした練習で克服。

大分上野丘(大分)
県内随一の進学校、放課後の練習は2時間までと決められていながら2008年秋季大会では九州大会出場を果たした文武両道。

夢があっていいなぁ。

参考:
asahi.com(朝日新聞社):21世紀枠・利府の選手、ブログで対戦校侮辱 厳重注意 – 社会

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商業主義 その2〜「売れてるからやる」「売れるようにする」

商業主義という言葉が気になったので調べてみたの続き。

引き続き、商業主義について考えている。前回は商業的・非商業的なモノについての観点から、考察を行った。

そこから1歩進めて、商業的なものには種類があるとして、どのようなアプローチに分類できるのか思考していた。

その結果、2つの傾向があるだろうことが想像できた。1つは、顧客調査の結果で売れることが分かっている製品・サービスを作るというアプローチ。もう1つは、売れないが良いと感じている製品・サービスを顧客へ届けるためのアプローチ。

前者のアプローチでは、顧客調査が正しく行われているという前提において、顧客が求めている「もの」を明確化し、それに似合う製品・サービスを製造・調達して提供することになる。後者のアプローチでは、既に「もの」が存在する、もしくは「もの」が存在せずに新しい「アイディア」が存在する状態において、それを受け入れていない・認知していない顧客に対してどのように提供していくかを検討し、提供する。

平たく言うと、「売れてるからやる」「売れるようにする」の違いである。

この事象について考えていくと、ああ、これは「ニーズ」と「シーズ」の違いじゃないか、と気づいた。「ニーズ」と「シーズ」の話を初回に聞いて「シーズ」が大事だと主張されたときには”そんなもの幻想だ。売れているものを作ればいい。”と思っていたが、時を経て、別の思考経路を経ると別の結論に到着していたようだ。

ただ、当時からある「ニーズ」と「シーズ」の説明には違和感がある。ニーズよりもシーズの方が重要である理由は、顧客からニーズを取得してサービスを作っていたのでは遅すぎるから、である。もしかしたら、自分がシーズの意味を理解し間違えているのかもしれない。

話を戻すと、「売れてるからやる」「売れるようにする」のような話を現実に当てはめようとする場合、特に興味のある携帯ゲーム機、NDSとPSPに置き換えてしまう。

例えば、NDSが売れた理由は”コアゲーマー層ではない層へのアピール”が良かったのだと思うし、PSPが売れた理由もまた”コアゲーマー層の要求に答えた”のが良かったのだろう。ただ、今回のNDSの成功によって、コア層ではない別の層へのアピールもまた検討事項である、という教訓が得られたことは良かったことだと思う。

このコア層と非コア層へのアピールについてはそれぞれ一長一短で、コア層は1人辺りの消費は多そうだが、非コア層は消費が少なそうだ。このデータについては調べてみる必要がある。

他の事例では、ひかりTVが50万契約を突破したようでで紹介したように

ひかりTVに契約する前、CATVやCSに加入していたかどうかについてCATVは75%、CSは80%が「一度も加入していない」と回答

という内容もある。

このような観点に立って物事を考えてみると、非コア層へのサービス提供は有力な選択肢となる。だが「売れるようにする」という観点の上では選択肢の1つに過ぎない。

「売れてるからやる」「売れるようにする」、自分が今まで好きだった製品・サービスがどちらの部類のものだったのか、どのようなチャネルを用いて自分に届いて響いたのか、確認作業中だ。

このようなことを感性で感じ取って行える人々が羨ましい。まだまだ勉強の日々だ。

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涙目の新リーダーは、WBC優勝監督か、SONY社長か

AERAの記事って面白いのかも。こんな時間にこんな記事を書くのも。

原監督「涙目の新リーダー」(AERA) – Yahoo!ニュース
あれだ。民主的というのは、フォロワーシップに近いものがあるのかもしれない。放任型はさすがにどうかと思う。集団の気質に大きく関係するのだろう。

ソニー「中鉢外し」の真相(AERA) – Yahoo!ニュース
クッターを追い出した時点で、ネットワークはないんだ。ネットワークよりも家電で稼ごうとした。ソフトよりもハードで稼ごうとした。それはある意味正しいが、ソフトありきのハードだ。

今日も、PS3について議論した。PS3でオンラインゲームを考える場合、ホスト-クライアントで通常はシステムを構成するが、最近ではP2Pでクラスタを組み、ホストというホストを決めずに負荷分散されたオンライン対戦が考えられる。それが実現できるのは、ネットワークを有した端末であること、PCのように端末の性能が高いこと、そしてPCとは違って全ての端末の性能が同等であるPS3だけだ。これに足りないのはネットワークの安定性や帯域・低遅延であり、NGNや光回線を用いることで最高のネットワーク対戦端末と環境になる。

これほど完全な環境が他にあるものか!

ソフトvsエレキじゃない!ソニー次期社長レースの号砲、平井SCE社長が最右翼、吉岡浩副社長の声も(東洋経済オンライン) – Yahoo!ニュース

両方できたクッターが必要なんだよ!(もしかしたらソフトは丸山さんかもしれないけれど!)今すぐ呼び戻せ!

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独占は罪 〜 JASRACを刺したのは誰か?

2008年4月23日、公正取引委員会、JASRACに独占禁止法違反の疑いで立ち入り検査が行われた。

2005年時点で、JASRACは独占禁止法違反ではないのでしょうか? – 教えて!gooにて

JASRACという著作権について扱う団体がありますが
あれは独占禁止法にあたらないのですか?
ネットで調べてみると著作権業界は、最近「「著作権等管理事業法」が制定されることで、他団体の参入が可能になった」と書いてありました。しかしJASRACの影響が大きいせいで参入は実質的に不可能だということです。
これは市場の独占にあたるのではないのでしょうか?
独占禁止法が定める「公正で自由な競争」という理念から外れているとはいえませんか?
よろしくお願いします。

のような質問が行われているが、独占禁止法を指摘する回答は出てきていない。

そのJASRACの独占禁止についての興味深い見解がJASRACを刺したのは誰か(解答編)に述べられている。

 公取委がJASRACを立ち入り検査したのは,JASRACが独禁法に違反していると誰かが申告し,その事実を確認するためであったと考えられます。

そして、その「誰か」とは

放送で使われた音楽の使用料を過去に徴収していたのはJASRACとイーライセンスだけであり,申告した可能性があるのは事実上,イーライセンスに絞られていました。事実,このブログ記事を書いた後,複数の方から「申告を行ったのはイーライセンスである」との情報が寄せられました。その後,イーライセンス代表取締役である三野明洋氏に対し,「イーライセンスが申告を行ったかどうかについては,取材の際には肯定も否定もしなかった」ということを確認しました。

としている。

さらに興味深い先読みとして、

 「音楽著作権者の利益を守る」という目的がある限り,JASRACが現在の利権を自ら手放すことはないでしょう。しかし,長い目で見ればJASRACも安泰だとは限りません。今回,問題視された放送事業者とJASRACとの定額契約は,放送事業者が自ら使用した楽曲を全曲は把握できていない点に原因があります。いわば「誰がどの商品をどれだけ売ったかがよくわからない状態」であり,競争が極めて成り立ちにくい市場なのです。一方,今後は楽曲提供の主流になると期待されているネットワークの世界では,すべての使用楽曲を容易に把握できます。

そして、

JASRACは,動画共有サイトである「ニコニコ動画」や「YouTube」との間でも楽曲使用の契約を結んでいます。JASRACによると,これらの契約はすべて全曲把握が前提になっているとのことです。こうした市場であれば,新規参入にも可能性があります。

とされている。

まとめると、このような理論になる。JASRACとしては、JASRACの利益が増大することが音楽家の利益の増大となる。よって、JASRACの利益を最大限に保つためには、音楽市場を独占し続けた方が都合がよい。そして音楽市場を独占するために、「包括契約」を行っている。

包括契約とは、楽曲の使用曲数に関わらず、事業収益の1.5%を楽曲の使用料として徴収する契約のことだ。つまり、収益の一定量を支払う契約をしているので、楽曲が使いたい放題な訳だ。ここまでの前提があり、記事中では「放送事業者が自ら使用した楽曲を全曲は把握できていない点」に問題があり、音楽家(もしくはレーベル)に正しい利益配分ができていないのでは?という疑念が生まれる。

その疑念を確認する意味で、「イーライセンスは放送における音楽著作権の管理をエイベックスマネジメントサービスに委託され,放送事業者と「使用料を個別徴収する包括利用契約」を結び,2006年10月から管理業務を行ってい」た。つまり、エイベックスは自身の音楽使用量がJASRACとの包括契約では”低く”見積もられてしまい、音楽家(またレーベル自身)の利益を最大にできないと考え、イーライセンスとの「個別徴収」の包括利用契約を結んだ。

しかしながら「JASRACに支払っている定額の使用料に追加する形で費用が発生してしまうため,エイベックスの楽曲がほとんど利用されなくなってしまった」、そして「エイベックスマネジメントサービスは同年12月下旬,2007年1月以降のイーライセンスへの管理委託契約を解約した」という展開を迎えている。

この問題の原点は、(多額の?)使用料を支払っている放送局が正しく楽曲使用の記録を行っていない点、そしてそのために、JASRACが正しく利益配分をおこなえていない可能性がある点、加えて放送局としてはその楽曲使用の記録は(とても煩雑な作業なので)今後としても行いたくない点にある。

これでは市場に参入できない。これらの背景があり、2009年2月27日、JASRACに勧告が行われた。JASRACに排除措置命令 新規参入を妨げているとして、公取委  – MSN産経ニュース

もともとJASRACの存在理由は音楽家の個別契約などの煩雑な作業を肩代わりして徴収することができる点であり、それは音楽家と利用者の双方に望まれている状況だった。しかし、JASRACのような業者が増えてしまうと、契約の手間がさらにかかってしまうために本末転倒である。つまり利用者側(特に放送局)としてはJASRACに独占されている方が、一社契約にまとめられるので都合がいいのだ。

結局のところ、JASRACのような団体を増やすためには、そのような団体の契約を管理するための、さらに1つの上位団体をつくり、その団体を通して楽曲使用料の支払いインターフェースを作るしかない。Googleが本のJASRACを設立する件についてのような話も関係ある。

そのような楽曲使用スキームがネット上などで構築できれば、ネット上における個別な楽曲使用による正しい利益配分も見えてくるのかもしれない。

ネット上の音楽配信について考えられることは、やはり音楽は「聞く・好きになる・買う」であり、初段階の「聞く」を実現できる手法でなければ最終的に「買われない」。企業が個人から曲を買って放送する(もしくは動画に利用する)というスキームが著作権管理団体も巻き込んで簡単な決済が行えるようにインターネット上でも構築することができれば、「聞く」を音楽家・使用者双方が納得できる状態で実現できるようになる。

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なぜ自分の生活スタイルの構築にこだわるのか

飲み会?の席で、最近、何をしているのか問われて「生活スタイルを作っている」という意味不明な回答を行っている。

実際、掃除を中心に、生活スタイルの構築に注力している。

この生活スタイルの構築については、自分の生活スタイルの構築を通して、他者の生活スタイルの形がどうなっているのか知ること、また提案できることはないのか、という観点で物を見ることに役立っていると思う。その考えの前提には、「物・サービスを売ることは生活スタイルを提案することだ」という思想が根底にある。

かつて自分の購買といえばPC関連商品や音楽関連商品を秋葉原でまとめ買いすることがほとんどで、生活を形作るための製品、生活を豊かにするための製品を買うことがなかった。そうした偏りの中で得た知識は、他者の経験することのない価値のある知識だったが、それを生活に組み込んで利用する・提案するという観点に立った場合、いわゆる「普通の」生活を過ごしていないので、伝えることが困難であるという壁に突き当たる。

よって、どちらか側から歩み寄りが必要なのだが、こちら側から生活スタイルを普通に近づける努力をすることが肝要、と考えて実践している。

掃除ひとつとっても奥が深いし、想像していたより困難だった。そのような経験を通して、何か出来ることはないかという思案にふけることは思ったより豊かだ。

そして自分の生活スタイルが成り立ってこそ、他者の生活スタイルが見えてくるし、また他者の生活スタイルに干渉する物・サービスを作れるのではないか、とも思えてくる。

この発想とは逆に相手の生活スタイルに入って自分を確認することを「自分探しの旅」と称するのかもしれない。それはおそらく次の段階だ。

この自分の生活スタイルを形作る手法が正しいかどうかは検証中だが、チャレンジングで豊かなだけ楽しい。昔の日本人の独立して物を作る一家の手工業とは、そんなものだったんじゃなかろうか。

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天才とセンスとジェネラリストと才能の使い道

最近、特にセンスとは何か、を考えている。

人を選ぶ話になるので、才能を信じない人は見なくていいかも。(あと、この文章を書いている人は成果を出していないので、こうするべきと考えている、と書かれていても信じないように)

どのような切り口が伝えやすいのか分からないが、明らかにセンスというものが人に固有に存在するように見えてならない。

このセンスについて考えると持つ、持たないという話になるのだが、自分としては”人間は平等”論者なので、”才能は皆が等しく持つものだ”というスタート地点からこの議論の思考を始めるようにしている。

”才能が平等”論を持つ理由は、障がい者の方々でも素晴らしい才能を持っているからだ。この才能については身体的なものと環境、そして人の適応性というものが大きく作用していると思う。才能の総量は変わらない。その理由から”天才とは才能のバランスがアンバランスな人間である”と自分の中で仮定している。

生物の話はよく分からないが、生物は環境に適応するために、個体特有の偏りを持つように細工されている。だから、粒のそろった個体ができるという訳ではなく、ある程度アンバランスに構成される。そのバランスが日常生活に支障が出るほどになると、コミュニケーションに影響が出たり、異物扱いをしたり、される可能性がある。その辺は生物的に嫌悪感を持つのか、文化的にそう思うようにされているのか分からない。

よって、才能がある人というものは、自分の偏りを悟った(自己分析)、もしくは偏るように生活した人なのだと思っている。正直、この自己分析は、自己で行うには困難かもしれない。

そこで他者分析がどうにかできないだろうか考えている。しかし万が一、才能を見つけたとしても、「やりたいこと」「やるべきこと」「できること」のうち、才能は「やるべきこと」「できること」に属するもので、「やりたいこと」に結び付けられるかどうか分からない。この「やりたいこと」に結びつけるメソッドが、社員教育のどこかにあるのではないかとも思っていた時期がある。今は、よく分からなくなっている。

”偏りがある”。そう思うことによって”まともな人間であるほど何処かに歪みがある”ように思ってしまったし、”偏りがあって使い物にならない”と思うほど、どこかに非凡な才能があるのではないかと思うようになった。偏りがあって自分をうまく生かせない人でもどこかに可能性があるとしたら、それを見つられなきゃ丸ごと損する。

組織は一人ではこなせない総量を数で圧倒するためではなく、個別の才能の連携で最高にうまくいくべきだと理想を考えている。実際問題、そう上手くはいかない。

上手くいっている例もあって、例えば日本理化学工業株式会社―新ものづくりベンチャーズの時代の記事にあるようにダストレスチョークで有名な日本理化学工業株式会社は74人のうち54人が知的障がい者らしい。テレビで見たときも、工程を細かく分け、それぞれが得意としている作業をできるように注意を払い、劣る部分についてはカバーリングをしていることに感銘を受けた。

Wikipediaの天才ページもなかなか興味深い。

1つの興味深いことは「エジソンはビジネス的な成功チャンスに賭けたのである。しかし、当時の「常識的」科学者達は、誰も電球の長寿命化に興味を持たなかった。」だ。常識を知ることは、それ自体、毒でもあると感じている。このブログでも書いて、どこに記事がいったか分からないが、「調べる前に考えることが大事だ」と思っている。調べた後に考えると常識に引きずられるからだ。

(だが、「調べる前に考えることが大事だ」も人の得意不得意があって、”考える”部分が劣る場合は素直に調べた方が効率が良い場合もある。だが”考える”ことに優れている劣っていることがはっきりすることがあるだろうか…?それも人それぞれと言ってしまえば…難しい)

もろもろのことを書いてみたが、重要なのは、上手くいかないと思うことがあっても自分の良いところを引き出せていないだけだ。良いところを引き出せれば成果が出てくる。成果が出てくれば自信が出てくる。自信が出てくれば積極的になる。積極的になればチャレンジャーになれる。チャレンジャーになれれば失敗する恐怖に打ち勝ち”やりたいことができる”ようになる。(もちろん、失敗する恐怖に”始めから”無頓着な人もいるし、それも才能だ。)

出来すぎな奴を見たら、歪んでやがると見ればいい。歪んでいる奴を見たら、できる部分を見つければいい。でも見つけるのはすっげぇ難しい場合もあるし、見え見えの場合もある。その見え方も、実は人同士の適性があるのかもしれない。「この人についていけば俺は伸びる!」「こいつ、伸ばせる!」みたいな。そういう場所を見つけるのは、人材の流動が激しくないと難しいかもしれない。

だから、専門家になれ、とか、ジェネラリストになれ、とかいう議論はそれなりに面白いが、なろうと思ってなれるんなら苦労はしねーよ!と思ったりする。むしろ、「何で俺こっちの方来てるんだよ!こっちの方に吸い込まれてるんだよ!」と思うことがある。「やりたいこと」よりも「できること」の方に流れた方が楽だからそう思ったりするのかもしれない。(ただし、誤解のないように補足していくと、自分のやりたいことをできるようになるイメージとしてスペシャルであるのかジェネラルであるのかを想像して、その姿に向かってプランを立てて近づいていこうと努力していくことは、良いことだと思う。)

ともかく万人に存在するだろう才能の発見メソッドに興味がある。ということを書きたかった。胡散臭いが…

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