天才とセンスとジェネラリストと才能の使い道

最近、特にセンスとは何か、を考えている。

人を選ぶ話になるので、才能を信じない人は見なくていいかも。(あと、この文章を書いている人は成果を出していないので、こうするべきと考えている、と書かれていても信じないように)

どのような切り口が伝えやすいのか分からないが、明らかにセンスというものが人に固有に存在するように見えてならない。

このセンスについて考えると持つ、持たないという話になるのだが、自分としては”人間は平等”論者なので、”才能は皆が等しく持つものだ”というスタート地点からこの議論の思考を始めるようにしている。

”才能が平等”論を持つ理由は、障がい者の方々でも素晴らしい才能を持っているからだ。この才能については身体的なものと環境、そして人の適応性というものが大きく作用していると思う。才能の総量は変わらない。その理由から”天才とは才能のバランスがアンバランスな人間である”と自分の中で仮定している。

生物の話はよく分からないが、生物は環境に適応するために、個体特有の偏りを持つように細工されている。だから、粒のそろった個体ができるという訳ではなく、ある程度アンバランスに構成される。そのバランスが日常生活に支障が出るほどになると、コミュニケーションに影響が出たり、異物扱いをしたり、される可能性がある。その辺は生物的に嫌悪感を持つのか、文化的にそう思うようにされているのか分からない。

よって、才能がある人というものは、自分の偏りを悟った(自己分析)、もしくは偏るように生活した人なのだと思っている。正直、この自己分析は、自己で行うには困難かもしれない。

そこで他者分析がどうにかできないだろうか考えている。しかし万が一、才能を見つけたとしても、「やりたいこと」「やるべきこと」「できること」のうち、才能は「やるべきこと」「できること」に属するもので、「やりたいこと」に結び付けられるかどうか分からない。この「やりたいこと」に結びつけるメソッドが、社員教育のどこかにあるのではないかとも思っていた時期がある。今は、よく分からなくなっている。

”偏りがある”。そう思うことによって”まともな人間であるほど何処かに歪みがある”ように思ってしまったし、”偏りがあって使い物にならない”と思うほど、どこかに非凡な才能があるのではないかと思うようになった。偏りがあって自分をうまく生かせない人でもどこかに可能性があるとしたら、それを見つられなきゃ丸ごと損する。

組織は一人ではこなせない総量を数で圧倒するためではなく、個別の才能の連携で最高にうまくいくべきだと理想を考えている。実際問題、そう上手くはいかない。

上手くいっている例もあって、例えば日本理化学工業株式会社―新ものづくりベンチャーズの時代の記事にあるようにダストレスチョークで有名な日本理化学工業株式会社は74人のうち54人が知的障がい者らしい。テレビで見たときも、工程を細かく分け、それぞれが得意としている作業をできるように注意を払い、劣る部分についてはカバーリングをしていることに感銘を受けた。

Wikipediaの天才ページもなかなか興味深い。

1つの興味深いことは「エジソンはビジネス的な成功チャンスに賭けたのである。しかし、当時の「常識的」科学者達は、誰も電球の長寿命化に興味を持たなかった。」だ。常識を知ることは、それ自体、毒でもあると感じている。このブログでも書いて、どこに記事がいったか分からないが、「調べる前に考えることが大事だ」と思っている。調べた後に考えると常識に引きずられるからだ。

(だが、「調べる前に考えることが大事だ」も人の得意不得意があって、”考える”部分が劣る場合は素直に調べた方が効率が良い場合もある。だが”考える”ことに優れている劣っていることがはっきりすることがあるだろうか…?それも人それぞれと言ってしまえば…難しい)

もろもろのことを書いてみたが、重要なのは、上手くいかないと思うことがあっても自分の良いところを引き出せていないだけだ。良いところを引き出せれば成果が出てくる。成果が出てくれば自信が出てくる。自信が出てくれば積極的になる。積極的になればチャレンジャーになれる。チャレンジャーになれれば失敗する恐怖に打ち勝ち”やりたいことができる”ようになる。(もちろん、失敗する恐怖に”始めから”無頓着な人もいるし、それも才能だ。)

出来すぎな奴を見たら、歪んでやがると見ればいい。歪んでいる奴を見たら、できる部分を見つければいい。でも見つけるのはすっげぇ難しい場合もあるし、見え見えの場合もある。その見え方も、実は人同士の適性があるのかもしれない。「この人についていけば俺は伸びる!」「こいつ、伸ばせる!」みたいな。そういう場所を見つけるのは、人材の流動が激しくないと難しいかもしれない。

だから、専門家になれ、とか、ジェネラリストになれ、とかいう議論はそれなりに面白いが、なろうと思ってなれるんなら苦労はしねーよ!と思ったりする。むしろ、「何で俺こっちの方来てるんだよ!こっちの方に吸い込まれてるんだよ!」と思うことがある。「やりたいこと」よりも「できること」の方に流れた方が楽だからそう思ったりするのかもしれない。(ただし、誤解のないように補足していくと、自分のやりたいことをできるようになるイメージとしてスペシャルであるのかジェネラルであるのかを想像して、その姿に向かってプランを立てて近づいていこうと努力していくことは、良いことだと思う。)

ともかく万人に存在するだろう才能の発見メソッドに興味がある。ということを書きたかった。胡散臭いが…

カテゴリー: チラシの裏 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください