ファイアーウォールしていますか

セキュリティについて考え直している。今まで外→内のセキュリティを厳重に考えていたが、内→外のセキュリティを引き上げるべき、ということだ。

内から外に自分から情報を出しちゃうようなケースにソフト的に対応したいよね、という話。

過去に、Chromeブラウザのプラグインで自分の想定しない動き(URL垂れ流し)をしていた、ということがあった。

詳しくは、bit.lyのbotが、自分のアドレスを公開していないプライベートなサーバにアクセスしてきている、ということだった。その件については解決できた。当然といえば当然で、恥ずかしい間違いだ。ソーシャルブックマークの数を測定するプラグインを入れていた。URLを投げて、ブックマークの数を調べてくれていた。その中に自身のプライベートなサーバのアドレスが入っていた。中にはbit.lyに知らせてリンクを作るものもあった、ということだ。

twitterにも書いたが、4年前ごろからGeasemonkeyのプラグインで、AmazonのアソシエイトIDを書き換えるようなものも出ている。どのような動きをしているのか、よく精査しなければなるまい。しかし、できるだろうか。Geasemonkeyのアップデートは、作者と直接的だ。信頼できる仲介者が存在するというものではない。

加えて、他人が管理しているサーバであるがアカウント乗っ取り被害を間近で見る機会があった。Gumblarではなかったような気がするが、可能性としてGumblarも調べた。Gumblarの場合、FTPパスワードを抜き取るといわれている。抜き取られたパスワードは内から外へ出て行く。そのパスワードを用いてサーバにログインされることがある。これはFTP以外を使っていても長い目で見れば同様に脅威だろう。

また暴露型プログラムの脅威もすごい。プログラムを実行すると登録フォームが出てきて、自ら本名と住所を書いてしまい、スクリーンショットと一緒に公開されてしまう、というプログラムが某所で話題になっている。しかも今回のケースでは簡単なC#で作られたものらしい。怪しいプログラムは実行するな、という良い見本だが、USBウィルスのように感染するようなものであった場合、どうだろうか。もしくは、Web上でフリーソフトを装いながら、その実はスクリーンショット自動公開ソフトであったら、どうだろうか。セキュリティポリシーが低い組織ではフリーソフトも用いるだろうが、脅威だ。

以上の事例を踏まえて、不勉強だったことを恥じ、今まで軽視していた内→外のセキュリティポリシーを考え直している。

考え直しているが、難しい。プログラムごとにネットワーク許可の設定を行うようなファイアウォールを設定してもよいのだが、許可をする前では、何を送ろうとしているのかがわからない。仮にスクリーンショットを送ろうとしているプログラムを拒否する場合、スクリーンショットを送ろうとしているのか、Webから情報を引き出そうとしているのかの見分けがつかない。

また、ブラウザプラグインの場合、ブラウザそのものを許可してしまっているので、プラグインごとの許可が出せない。また何を改ざんされているのかが分からない。ソースを読むしかない。

このことから、何かしら新しいものを利用する場合は、検疫をするためのクリーンな環境、重要・プライベートな情報が存在しない環境を作り、試してみてから決める、ということをしなければならない。ここまでの段階になってくると、もうセキュリティベンダーがアプリケーション・プラグイン・スクリプトを調べて安全マークをつけていかざるを得なくなってくる。となるとセキュリティベンダーがアプリケーションを配布した方が良い。もしくはセキュリティソフトがアプリケーションのフットプリントを全て持っていて、安全段階を示した上で動作させるという流れが正しいだろう。

そうなってくると、AppleがiPhoneのアプリケーションで実行している、検閲したアプリケーションしか公開させない、という方針も分かるような気がしてくる。

そのうち、Proxy型のファイアウォールが出て、プログラムからサーバの代わりに通信を受け、確認してから送信するようなセキュリティの形が出てくるのかもしれない。そうしたときにバイナリでは都合が悪いので、必ず、見て分かる形で送信するように、バイナリデータのオープン化が求められる。通信許可者が目で見て確認できる形でなければ許可しない。従って全て見える形になる。そういう向きになるべきなのだろうか。

と考えたところで、面倒になったので、とりあえずプログラムごとに通信許可ポリシーを決められるファイアウォールのフリーソフトはないものか、探してみようと思ったところだ。

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若者の消費離れについて思うこと

若者の○○離れのガイドライン

【若者が離れていったもの一覧】
食関連・・・酒離れ 外食離れ 調味料離れ お茶離れ ビール離れ 梅干し離れ
性関連・・・性交離れ 風俗離れ 恋愛離れ 女性離れ
運動関連・・・野球離れ 学生運動離れ スキー離れ
生活関連・・・献血離れ 借金離れ 犯罪離れ 就職離れ 会話離れ 交通事故離れ
趣味関連・・・旅行離れ 賭博離れ CD離れ 映画離れ ゲーム離れ
思考関連・・・浪費離れ 夢想離れ 宗教離れ
嗜好品関連・・・煙草離れ 四輪離れ 二輪離れ 腕時計離れ ブランド離れ
情報媒体関連・・・TV離れ 新聞離れ 雑誌離れ

最近は上記のもののような、「離れ」が話題になっている。

特に消費離れの問題は深刻で、市場が回らずに衰退していったり、売れないので後継者を育てる気にもならず文化が受け継がれなくなったり、などの影響がある。

少子化の影響とされているが、本当にそうなのか疑問だ。所得がない、と言われているが、そうだろうか。現時点の自分の判断としては、最近の若者は流されないような気がする。あこがれを持たない、と言うべきか。

数年前から、若者は携帯電話・インターネット中心の生活となり、趣向品を買わずに携帯電話の通信料を支払うようになってきている、と感じている。このことを何度か書いたことがあるとは思う。若者はネットワークこそがお金を掛けてもよい・期待できる産業だと考えており、だから自分自身はネットワークの世界に身を投じることにした。

基本的に通信料にお金をかけているだけあって、残りのお金は限られている。そのお金で何をするかについては、よく情報を調べている。通信を使って。で、自身がお金をかけようと思えるものにお金をかけている。無料で手に入るもの、Youtubeだったりはよく活用している。1度だけ聞いたらもういいや的な音楽も、昔は買っていたけれど今は買わない。昔は外国の動画も珍しかったけれど、今はそうでもない。危険なこと・違法なことをすれば、インターネット上で吊し上げを食らうことも分かっている。

いや、違うかもしれない。今まで流れを作っていたものが、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌だったけれども、最近はインターネット上から流行が生まれている、とも解釈出来るのか。

よく考え直す必要がありそうだ。

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「見て盗め」という教育方針について考えてみる

日本の職人さんの世界では「見て盗め」という言葉がある。これは前回のマニュアル話とは違う価値観の上で成り立つ話である。しかしながら、長くそのような慣習が行われてきたということは、何かしらの効果があることだと思う。そこで、「見て盗め」の意味を考えてみた。

「見て」とは、観察力のことだと考えられる。「見て盗め」とは”よく観察して自分でやってみなさい”という意味とする。それでは、何故、手取り足取り教えることをせずに、観察力を求めるのだろうか。観察力を求める意義について考えていく。

1つは、親方が教える時間がない、教えるのが面倒くさい、という可能性である。
親方は多忙である。ゆえに弟子に時間をかけることが出来ない。そこで、自身の仕事を見せることで教育の代わりとしているのである。

1つは、親方が教え下手である、という可能性である。
親方とて、人の子。生まれたときから親方であるはずもなく、様々な人生を経て親方になっている。中には弟子にならずに親方になってしまった人もいるかもしれない。親方自身も、技を見て盗んで覚えた口かもしれない。もしくは無口で何もしゃべらずコミュニケーション能力に問題があるかもしれない。

1つは、親方以外の人の動き、自然の動き、全てから学ぶことができる、という可能性である。
有力なのは、感性を磨くための訓練、という線である。職人ほどの手さばきとなると、口で伝えること以上に身体で覚えることも多い。また、継承だけではなく、弟子本人の感性を持って昇華させなければならない。そうしたときに感性が磨かれていないと、人のためのモノづくり、サービス、芸術は行えない。そうした活動は人を喜ばずために行われるものであり、どうしたら人が喜ぶのかについては観察力がなければ分からないからだ。

1つは、見て出来るようになるようなセンスの持ち主でなければ職人として生きていけない、という可能性である。
親方としては、弟子はそうした感性を持っていなければ、到底、この業界・職業で生きてはいけないだろうと考えている。そこで、観察力が一定の水準を満たしているかどうかの線引きとして、「見て盗め」を実践させている。

見せないがやってみろ
また調べてみると、「見て盗め」よりも過激に「見せないがやってみろ」というものもある。この考え方は奥が深く、勉強になる。観察力に長けており「見て盗め」が上手く行える人は、見たことが無い作業はやらない、という状態に陥る。これは保守的であり、新しい革新的な何かが必要になったときに見てないから出来ないでは困る。「見て盗む」ことに満足しないで、”見たことが無いことを出来るようになる”段階まで先があることを気づかせてくれる。

これは、観察もせずに勝手に作業を行うのとは違う。今までの観察を踏まえて、どのようにしたら相手が満足するのかを考えながら作業しろ、という意味とも取れる。深い。

現代の組織活動ではどうなのか
「見て盗め」という教育手法は、教育者の手を煩わせずに生徒を成長させられれると思われるが、成長には長い時間が必要ではないかという予想がある。職人の世界では住み込みで仕事を行いながら覚えていくが、これは長期間続けて行われる。”気づき”とは人に差があり、一般的には短期間で習得出来るものではない。それでも成り立つのは、弟子が”技術を習得したい”という強い思い入れがあり、一瞬を逃さない心構えが出来ているからなのだと考えている。

現代の組織では、場所によっては短期間の成果を出すことを求められながらも、「見て盗め」手法が行われている場合がある(と予想している)。この手法が短時間で上手く行くのかについては非常に疑問である。まず、強い思い入れが生徒側にない。そのため執着もない。観察力を磨くという境地にも至れない。短時間ではなおさらだ。

もし短時間で習得に成功するのであれば、教えるまでもなく出来た、というケースのような気がする。そこに教育があったのかどうかも疑問だ。

よって、短時間で成果を出すまでに教育する、という観点ではマニュアル作りは欠かせない、という結論に、今日は至ろうと思う。
逆に長期間の余裕があり大成を願うのであれば「見て盗め」も悪くはない。マニュアル作りにせよ、「見て盗め」にせよ、どのようにしたら相手が喜ぶのか、効率良く行えるのかについての結果比較は観察力がなければ測定ができない。よってマニュアル教育においても観察力を養う必要はあるのだが、その気づきを与えるには一人で読むことよりも他の人とのミーティングが効果的だろう。

ってか、まだマニュアル忘れてないのかよ。

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ぼくのかんがえたさいきょうのマニュアル管理システム

マニュアルを書いたことも読んだこともないよ。そんな人が考える、糞マニュアル論。ISOとか読む気しねーし!

序論

過去にアルバイトでマニュアル管理システムについての調査をしていた時期があった。当時、自分はマニュアルの文章管理が簡単にできる製品を作ることを主眼において考えていた。例えば、マニュアルには重複する箇所が存在するが、普通のWord文章では1箇所を修正しただけでは他の同じ箇所を修正することができない。プログラムの関数のように、1箇所を変更しても全ての箇所に適用されるようなシステムであることが望ましい。というふうな考え方だ。また役職や作業単位ごとにマニュアルを動的に作成できる、多人数が同時に作業できる、様々な形式で出力できる、などのシステム的要素のアイディアも出していった。

そういった経験もあり、今でもマニュアル作りについては思案にふけることがある。最近になって思うのは、もしマニュアル管理システムを作るのであれば、マニュアル作りの本質を重要視して、システム構成を考えるべきだった、という点である。営業用の製品としてセールスフォースと呼ばれるものがあるが、この製品は営業の手順を均一化することでパフォーマンスを上げる効果があると考えている。マニュアル管理システムを文章管理システムの見方で構成するのではなく、マニュアル作りの電子化手順を踏むという方向性を示すことができなかったことを悔いている。

脱マニュアル

話は変わるが、脱マニュアルという向きの流れがある。マニュアルを捨てて、自分で考えて物事を行わせるというものだ。マニュアル主義による、でたらめな接客や非効率的な作業の継続など、その状況においてあり得ないことを行っている人々が存在する。その背景にはマニュアルに従っていれば、問題ない・怒られない・間違いはない、という信仰があるからなのだろう。実際、その信仰は正しい。

マニュアルとは、新しくその業務・作業に触れる人間をミジンコ野郎から訓練生レベルにまで押し上げる”きっかけ”を与えるもので、そのマニュアルに自身の成長を助けてもらっている。おかげで成果を上げてこられたのだから、感謝の気持ちを持って、信仰することもあるだろう。しかしながら、それはマニュアルのあり方の本質を間違って理解している。

その顕著な例は、”マニュアルは絶対不変である”という思い込みである。

マニュアルとは

マニュアルという言葉を聞いて多くの人が思い浮かべるのは、取り扱い説明書のことだと思う。家電に付属してくるアレは、読まれないことが多い。製品を見ただけで利用できる方が望ましいのだから、その心境は複雑なものである。しかし読まないと痛い目を見ることもある。しかし、この議論のマニュアルと取り扱い説明書は違う。

ここで話をしているマニュアルとは、手引書や業務手順書の意味だ。なぜ、業務手順書が作られるのか、考えてみよう。

ある仕事を任される時、口頭で作業内容を伝えられ、作業に入る。作業指示者が有能な場合、どのように作業をしたら効率的なのかを示されることがある。ときに作業者自身が、より効率的な作業方法を見つけたりする。指示者が無能な場合、もしくは重要性が低い作業、どうやっても差が出ない作業の場合は、ただ「やれ」と言われる。つまり、困難で時間のかかる作業の場合は、作業指示者、もしくは作業者の技量によって、効率性や品質に差が出る。

皆が口頭で素晴らしい作業説明をしたり、職人の下で修行をする弟子のごとく技を盗んだり、できるのであれば良い。しかし世の中はミジンコ野郎ばかりである。そこで、作業指示者や作業者によって作業の差が出ないように考慮した1つの結果が、業務手順書である。
業務手順書は紙に文章で、どのように作業をするべきかを書いていく。ミジンコが書いた手順書には意味がない。お分かりの通り、非効率的なものになる。だが、しかし、意味はある。その点を説明すべく、マニュアル作りにおいて重要だと思われる点を重点的に説明していく。

マニュアルは最適な作業手法が記されなければならない

マニュアルは前述の通り、業務の効率や品質を向上させるために作られ、読むものである。よって、その作業環境で最も適している作業手法が記されなければならない。もし外部の人間がマニュアル作りを依頼されたなら作業者にヒアリングを行う(だろう)。それは最も優秀な作業者に対してであったり、作業者全員に対して、であったりするかもしれない。そうしてヒアリングをしていき、その作業のポイントとなる作業を列挙していく。列挙していくと、あからさなまに非効率な箇所が見えてくることもある。また、ひょんな作業者が効率的な手順を行っていることもある。そのような作業を経て、良い作業をスクリーニングしていく。

マニュアルは改訂されなければならない

過去の成功体験が現状の惨劇を生み出すが如く、永遠の個別手法は存在しないという観点に立つ。人は変わる、価値観は変わる、時代は変わる。そうした中でマニュアルは世界と合わなくなっていく。ITのような技術が成長していたり、安い外注が出現したりなどの環境の変化があるからだ。必ずマニュアルは古くなる。よって定期的にマニュアルが正しいかどうかを精査し、改定を行う必要性がある。

マニュアルは作業者のレベルに落とされなくてはならない

マニュアルを読む人間がミジンコだと誰が思うだろうか。しかしミジンコなのだ。ミジンコに分かるように書かなければなるまい。しかしミジンコは文章で分からないかもしれない。そうした場合は図や写真を織り交ぜていくと効果的だ。例えば、学校教育の中で、教科書というものがあるが、教科書のみで読み薦められる学力のあるものがどれだけ存在するだろうか。そして、マニュアルを必要とする人はどのような学力のものなのか考えてみよう。

マニュアルは”読むもの”なのだ、という考え方が良くない。”読み聞かせる”、”マニュアルを元に議論をする”という教育を経ないと、本当のマニュアル内容の理解はできない。

マニュアルの執筆者は作業者であることが望ましい

本来的にはマニュアルの執筆者は作業者であることが望ましい。なぜなら、ミジンコ向けの文書を書けるのはミジンコだからだ。ミジンコ同士が議論を行い、その議論を深めていった結果として、マニュアル改定が行われる流れが本筋である。そうすることによって、全体の作業者のマニュアル理解が高まる。さらにマニュアルは可変であるという意識を持つに足る。学校教育においても”学生が自分たちで教科書を作る”くらいの根性があってもいいと思う。

マニュアルは一貫性を持たなければならない

作業者が議論をするにしても、最も守らなければならないのは、組織・企業が大事にしているビジョン・コンセプトやビジネスモデルである。過去に「うまい、はやい、やすい」について吉野家の事例を取り上げたが、これを例に考えてみよう。

ある作業者が”より早い”作業方法を思いつき、議論の場で提案し、理解を得る。しかし、ある参加者が”美味くできるのか”という反論を出す。検証した結果、より早い作業方法だが、美味さが損なわれることが分かった。企業スタイルとして最も重視するのは「美味さ」であるので、上司と相談した結果、その提案を破棄した。

効率的な手法が見つかっても、その組織・企業の取るべき道に照らし合わせて正しいものなのかという議論が必要だ。つまり、その企業が持つ、接客の本質・業務手順の本質の理解もまた必要なのである。

あるべきマニュアル管理システム

上記のマニュアル作りの要件を踏まえて、システム作りをするとすれば、「最も良い手法を」「更新しやすく」「読まれる形で」「作業者自身が」「一貫性を持って」遂行できることが重要だと考えられる。

このうち序盤から意識すべきは”マニュアルとは可変である”ことであり、「作業者自身が」更新しやすいシステムの構成を行うべきである。この形はログイン可能なWikiに近い。作業者自身のリテラシー・スキルに応じて、カメラつき携帯電話の写真投稿の対応、ビデオ投稿などバリエーションが考えられる。

読まれる工夫としては、現時点では電子媒体よりも紙媒体であることが望ましいケースがいくつか見られる。そこで、出力形式としてルーズリーフなどのバインダーを意識したものとし、更新があれば、更新箇所を入れ替えすることで「更新の容易性」と「読まれる形で」を両立することを考える。

「最も良い手法を」「一貫性を持つ」ように構成するためには、作業者と作業指示者との議論が必須であると考えられる。そこで、議論のためのたたき台を投稿でき、かつ議論を正しく誘導でき、結果を議事録として残せるものであることが望ましい。

このシステムの手順自体がどのようなものになるのか分からないが、紙→電子→紙→電子→…と往復するものになるのだろう。マニュアルをバインダーに閉じていく行為がデアゴスティーニ風味に中毒していけばうまくハマると予想している。

まとめ

と、こんなことをマニュアル調査ミッションをもらってから関係が切れた後もずっと考えていて、マニュアルという言葉を聞くたびに頭の中に割り込みが入って目障りだった。今回の記事で吐き出せて幸せ。ようやく面倒なことを考えずに済むわー。もう思い出さない。忘れるために書いた。もう忘れる。

っていうか、ここまで読んでる奴いないだろー

「マニュアル主義と脱マニュアル主義のボタンのかけ違い」というタイトルで書き始めた結果が「マニュアル管理システム」とは、これいかに?管理システムのことを相当に根に持ってたんだなー。ていうか、まとも働いたこともなくて、マニュアル大嫌いで、プログラムにもコメント行残さない人間なのに、マニュアルについて語るなんて片腹痛いわー。5つのマニュアルの重要点について書いたけれど、たぶん、こんなの現場にないから。通用しないから。ちゃんとISO9000系読んでね、と。

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FlashとSVGとAdobeについての駄文

FlashとSVGとAdobeについて徒然なるままに書いてみる。

iPhoneでFlashが再生できない点について、非難のようなものがある。この解決方法について思考してみる。ただし、HTML5やSVG, ひいてはJavascirptについてはよくよく調べている訳ではないので誤認識があるかもしれない。

AdobeがSVG出力をサポートするべきなのか

AdobeがFlashアニメーションのオーサリング結果の出力をSVG+Javascript(もしくはCanvas)で行えるようにすれば良い。

Flashはベクターグラフィック(ベクトル画像)を再生できる軽量なプラグインだ。日本において数年前にFlashブームのようなものがあり、その終末には「のま猫」事件のようなものがある。当時としてベクターグラフィックを快適に見せることができるプラグインは珍しく、どれほど拡大しても綺麗であることに驚いた。さらにアニメーションが他のどのプラグインと比べても滑らかに動作した。今ではFlashは重い、と評されているが、基本的なベクターグラフィックの表現であれば、それほど重いものではないと感覚的に感じている。

現時点において、Flashのようなベクター表現を実現する手法としてSVGが存在している。wikipediaによると、IE以外の主要なブラウザはSVGによる表現が可能であるようだ。さらにタイムライン(時系列変化)のアニメーションを実現できる規格について調べて見ると、Web上のマルチメディア表現を実現するためのXMLであるSMILにおいて、SMIL Animationというものがあることが分かった。

SVG has been designed to allow future versions of SMIL [SMIL1] to use animated or static SVG content as media components.

http://www.w3.org/TR/SVG11/animate.html#Introduction

このSMILについて実装されているものは存在しているのかどうかwikipediaを辿ると、有名所ではRealPlayerやCDMA 1Xあたりしか実装が存在しないらしい。

現時点においては、おそらくはjavascriptによってSMIL形式を再生するような実装が存在するのだろう。Javascriptによって直接SVGのDOMを変更することは可能である。しかしながら、それではFlashをJavascriptでパースして再生するGordonと何が違うのか?という点がある。Flashのファイル形式であるSWFは、現時点において規格は公開されている。ActionScriptも無償の開発環境が提供されている。それならばFlashでいいという話になってしまう。

しかし逆に考えればAdobeがFlash形式にこだわる理由は何であろうか。

現時点においてAdobeがFlashに対して優位性が存在するとすれば、Flashの再生環境であるFlash playerのソースコードを所持しており、またその開発指針を自身の判断で定めることが出来ること、自身のFlash Playerに最適化する出力ができるオーサリングソフトを出せる点にあると考えている。このオーサリングの部分に徹することはできないのか。

以前にAdobeは、AcrobatとAcrobatReaderを分割することによって、読み込みソフトは無償のものを提供し、オーサリングソフトで有償のものを提供するというモデルを見せた。オーサリングソフトに徹するという考えであれば、Flash CSは、SVGでアニメーション出来るものを出してもいいと考えられる。しかし、Adobe側の発言を見ると、iPhoneプラットフォームはFlashに対応するべしというメッセージが伝わってくる。このメッセージの裏には何があるのか邪推したくなる。

DRMストリーミング環境としてのFlashPlayer搭載を望んでいるのか。それよりも、現時点においてAdobe Flash CSの利用者を擁護してのことなのだろうか。現時点でAdobe Flash CSはSVG環境のアニメーションを実現できない。ということは、既存の製品ではiPhoneプラットフォームに対して何もできないことを示している。その状況を察してか、CS5ではクロスコンパイルを行うことが出来る機能を追加した。この機能をappleはどう扱うのかについての状況はよく分からない。どちらにせよWebブラウザ上で表示することは無い。将来的にSVGアニメーション出力できるようになれば、状況は変わってくるのだと考えられる。

もし、SVGアニメーション出力できるようになったとして、懸念もある。それは標準ありきの実装となるので、実装ごとの挙動の違いが出てくるという点だ。以前にHTMLやCSS、Javascriptの挙動の違いでIEなどに苦しめられた開発者は多いはずだ。標準化ありきの実装では、解釈の違いが生まれる。SVGやJavascriptの実装ごとの違いがどうなっているのか分からないが、Gecko系とwebkit系、Tridentの全てで確認をする必要が出てくることになる。これはオーサリングソフトの責任なのか、アニメーション作成者の責任なのか分からない。現時点においては、Flash Playerというプラグインがプラットフォーム(ブラウザ・OS)の違いを埋めている。面倒なことになるだろう。

例えば、無線LANの規格であるIEEE802.11では、様々なメーカーが入り乱れて実装を行っているが、どの機器も問題なく通信することが出来る。これはWi-Fiアライアンスという団体が、各実装のテストを行い、相互接続できることを確認している。最近ではWi-Fi=無線LANという認識である人が多いが、それは相互接続できる保証を買っているということであり、無線LAN規格そのものを示す言葉ではない。Wi-Fiアライアンスには相互接続を試験するためのリファレンスとなる無線LAN実装があるはずである。

このリファレンスがSVGアニメーションの世界に策定されるべきで、リファレンスに従って、それぞれの実装が行われることによって、挙動の違いが生まれず苦労は減ることになる。ではリファレンスを誰が作るのか、という話になるのだが、思考を巡っていくと、やはりFlash Playerにたどり着く。

Gordon実装のように、SWFファイル形式を読み込んで、各ブラウザに合わせた形でSVG+Javascriptに表現しなおす。その表現はFlash Playerと同等にあるようにする。この方式はサーバで変換しようが、Gordonのようにクライアントで変換しようが自由だが、そういった形でなければ、既存のFlash作者たちは救われないだろうと考えられる。

この方式の解決方法でも、現時点で上手くアニメーションできるのかどうかについては知らない。ブラウザのレンダリングとJavascriptが相当に高速に動くのであれば、可能性のある話だとは思っている。

こうした思考の結果もあり、巷で「Flashは重いのでより軽いHTML5実装を望む」という意見は、疑問に思っている。HTML5でも重いサイトは作れる。拡張を入れまくったjqueryやprototypeが読み込まれ表示されるまでにどれくらい時間がかかるのか。むしろ、仮にHTML5全盛の時代になったら、激しいCSSエフェクトと激しいJavascriptアニメーションが我々を迎え入れてくれるだろう。このとき、HTMLの利点は、その気になればCSSを切れる、Javascriptを実行しない、という選択肢が取れることであろうか。これもFlashと同じく、作成者の配慮がなければ、まとも動くサイトではなくなるだろう。

Flashって必要かしら

ベクターでインタラクティブな表現じゃないFlashなら、動画に変換してしまえばいいじゃない。どんなサイズでもベクターなら対応できる、という特徴は動画を複数用意すれば解決出来る問題。

企業ページのナビゲーション程度ならそれこそFlashいらない。

スループット測定はFlashかJava実装が多いけれども、Javascriptでどうにか出来る。たぶん。

Webカメラは別にアプリ用意すればできる。

AnalyticsがFlash使っているのはGoogleらしくない。

動画サイトはoggとmp4用意すれば、とりあえず大丈夫。oggは必要ないかも。

ブラウザゲーのFlash実装は全てCanvasとJavascriptで組み直すかスタンドアロンアプリ作るかで対応すべし。

その他

iPhoneでPDFが見られるのはスルーなのか。組版もしっかりやるべきではなかろうか。いや、epubなのか?

あと誰かiPhoneでJavaを動かせろと文句を言ってあげて下さい。JavaとJavascriptは別ものなので。

Flash MX時代のFlashは今、再生するとムチャクチャ軽い。CS3,CS4で開発してる連中は何しとるんじゃと思うくらい軽い。バージョンアップで重くなった?Adobeに移って重くなった?重さにActionScriptは関係していないはず。意味分からん。エフェクトが重いのかもしれない。拾い物のSWFの差があるだけかもしれないけれど。

PS3のFlash Player 10対応まだー

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寸評・続き

3Gとの抱き合わせがあれば売れるという話があるけれど、それは対象となった製品が携帯電話の代替製品であったからであって、今回の製品は携帯電話の代わりにはならないので、購買理由にはならなげ。大手会社がよく似せて作った安藤さんは売れていそうな気配を感じるので、携帯電話の代わりという位置づけはガチ。それ以外のポジションは疑問。冷静な判断ができれば。

このポジションは彼らが否定していたネットブックに近い。近いというか、前回の小型版を勉強していない状況で触れようとしたので、そういう感覚を持ったままだった。既にこの系列の小型版を持っているのであれば、間違いは犯さないと思う。もし、持っていない人がこの製品を買うのであれば、思いとどまってよく考え直したほうがいい。そのような人に対しては、安藤さんがこの手の製品を出すと云っているので、それを待った方が良いケースは多いはずだ。もしくはネットブックを買ったほうが幸せになれる。せめて、もう1世代待った方がいい(あまり期待できないが)。

この製品は、使い手と、場所と、状況を選ぶ。

体験してみたければ、(知人には)貸し出すので、よく検討して欲しい。

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例の物が手に入ったので寸評

何処に居るのかは別として。…この手の製品は初めて手にするので知らない箇所も多いかも。

初めて手に持ったときに、「重い、これは重い」と重軽石(石を持ち上げて軽いと思えば願いが叶う逸話)の試練を感じる。使っていくと、重さをそれほど感じなくなってくるが、腕がだるくなってくる(一晩経って軽い筋肉痛か?)。

説明書は紙1枚。まったく使い方が分からない。共有フォルダのように簡単にファイルの移動はできない?

Wi-Fiは云われている通り受信感度が低い。PCで受信感度が半分くらいの距離で利用しようとしても不可。部屋ごとに無線AP置くんですか?とは云いすぎとしても、壁3,4枚ごとにAPを設置する必要がありそう。後に改善されるのかどうかは分からないが、ソフトウェアでどうこうなる問題とは思えない。

液晶は綺麗だ。だけれども、Youtubeを普通に見ようとすると、アプリ側では720pな動画がどれなのか分からない―現時点で私が見つけられていないだけかもしれないが―ので、粗い動画ばかり見ることになる。これの対象ユーザーは動画の中身が重要であって、画質は気にしないのだろう。加えて油断すると自分の顔が映るので悲しいが、良いタイミングで現実に引き戻される。

キーボードは思ったより打ちやすい。が、記号と数字は腹が立つ。

アプリ全体は、対応しているものでないと画面が小さくなってしまう。その現象は耐え切れないものなので、数万のアプリが対応していると云われようが結果的に数種のアプリが使えますよ、であることに変わりは無い。現時点でも有力なアプリは対応しているものが多いので、困ることは無い。

電子書籍は使い込んでいないので分からないが、縦書きの日本語を試しに読んでみても違和感は無い。漫画は使いやすいビューワとセットじゃないと辛いんじゃなかろうか。純正のアプリがもっとも使いやすい気がする。

ゲームは悪くない。PC向けのブラウザゲームやFlash(タワーディフェンスや農園栽培)的なゲームとは相性が良い。3Dゲームは微妙。一番売れている車ゲーをやってみて感じたが、3DゲームはPS3を持っている人間がいまさらやる気になれない。

マルチタッチは本当に使いやすいのかどうか分からないが、使い方の訓練は必要だ。チュートリアルが欲しいくらい。電源の場所も音量の場所も使って覚えろな感じ。初見で使いこなすのは難しいのだな、と。マルチタッチの操作としては各アプリは使いやすい。RDPでWindowsに接続するとして、マルチタッチで操作したいかというと別で、不快感しかない。

動画はh.264の1080p的な動画は純正アプリでは無理。公式アプリで一番売れているreaderなら見られる。DLNA対応のものも提供されていて、ネットワークを通して見ることができるが、よく落ちる。公式No.1アプリの方が一度ダウンロードすることが必要だが、勝手が良い。1080pもコマ落ちなく見られる。すごい綺麗。

Safariは、マウスカーソルと指のアイコンが出てこないので、どこがリンクか分からない。検索語を入れる場所で、途中から編集するのが辛い(もしくは方法が分からない)。またFlashに対応しないのは個人的に辛い。Flashに依存するサイトを使っていない人は大丈夫。

まとめ

個人的に使えると思っている用途は電子書籍>Webブラウジング>動画の3つ。

日本における電子書籍の流れが悪いことを考慮すると、既に存在する分厚いPDFを見たり、本を買って自分でスキャンしてepubなりPDFなりに変換して見たりする覚悟がなければ、多くの一般の人の利用価値は薄いだろう。と、一晩たった今、感じている。

リテラシー低い層がブラウジングができるのか否かについては、程度にもよるが、50歳あたりが利用できるかできないかの割れ目だと思う。それ以上だと、小さい字が読めず、またリテラシーが低ければどのタイミングで大きくするべきか、どのリンクが押せるのかがまったく分からないので、詰む可能性が高そうだ。特定のページの一面を見ることであれば可能そうだ。低リテラシー層は、専用のアプリを作って救うことを考えたほうが良いはず。

動画についてはかなり良いと思うのだが、それを持ち歩くかどうかは疑問。テレビ放送を自宅からストリーミングして、見られる状況を作れれば、使うかもしれない。

ともかく文化に触れて間もないので分からないことが多い。また後で評価について考えてみようかと思う。

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