組織を変えていく力

組織が腐っているという話を聞いて、思うところがあるので、書いてみようと思う。この話は酒に酔っているから書く。昔の同僚はこのブログを見てないよな。俺の顔も見たくないと思うだろうから。そして昔のことを冷静に思い出せるようになったから。彼らにとって終わった話でも、俺にとっては組織論として終わることのない経験だった。

俺は組織の理不尽さを理由に、組織を辞めたことがある。その組織は30〜40人程度だった。辞めるときは7,8人でまとまって辞めた。ある一人が辞めるといい、それに続いた形になった。その人数は辞める後押しをしてくれたし、上への抗議の意味もあると、そのときは考えていたからだ。結局、その抗議も意味を成さないものになった。その後、長い間、といっても1,2年だが、どうすれば組織として辞めさせずに済んだか、全員が幸せになることができたか、考えてきた。

その中に入って1年間は、不満を持っていた。ある種の新入り病かもしれない。慢性的に上(先輩)から下(後輩)への知識の伝播が行われなかったこと、下の人間が経験を得る機会が存在しなかったことが原因だった。実際に週1のミーティングが存在し、その中でどうしたら良くなるのかの話がよく行われていたが、精神論的な話に終始していたように記憶している。意識が足りない、集中力がない、次の仕事を探さない、それらの問題の源は何処にあるのか、考えようとしていなかった。俺を含めた新入組は特に上手くいってなかった。だから知的な作業というよりは派遣的な肉体労働を強いられ、知的な作業の際には上に追い出され、楽しいと思えるレベルではなかった。

その頃、俺はインターネットの検索能力に裏付けた知識量、勉強量には過信してした。実際のところ、全体のシステム構成を新入組で構成できる人間は少数だった。そこで、自分の持っている知識を新入組と共有するべく、サイト(当時はホームページ)を作った。この試みはコンテンツの少ない当時としては成功し、基礎知識の共有を図ることができた。近い上の人からも好評を得ており、それがまた、自分の力を過信する要因となった。

組織をどうこうしようという考えがあったのか、トップを狙おうとしていたのか分からない。ただ技術だけは負けたくなかったと当時は思う。なぜなら当時は技術者信仰があったから(今もかもしれない)。そのときには同期の能力に漠然とした不安を持っていたし、楽しんでそれが出来ているとは思わなかった。

どうすればいいのか、という自分の出した結論は、上を含まず、同期のみで実地研修を行い同期で経験を積んでいくことだ、ということだった。そうすることで経験から、さらに知識を得たいという要求が出てくると思ったからだ。そこで、同期の一人ひとりにそれとなくヒアリングを行い、実地研修の必要性がそれとなく反応が良かったので、行うことにした。すぐ上の人間にもそれとなく打診し、その意味に賛同してくれ、もしやると決まったら連絡してくれ、と好印象を得ることが出来た。

しかし、その後は若さゆえの過ちだろうか、上の人間に対する筋を通さずにゲリラ的に開催を行う暴挙を、俺が起こしてしまう。その問題は、はるか上の人間に伝わり、指揮系統を下って、すぐ上の人間、そして俺にたどり着いたのは、そのゲリラ開催の日の朝だった。そのときに、何かを行おうとする場合には、指揮系統を登って交渉、つまり根回りを行ってから事を起こさなければならない、ということを初めて知った。少なからず、当時は遥か上からの問題の指摘と、それによるすぐ上の人間の狼狽が想定できなかった。その朝、中止を伝達する手は悔しさで一杯だった。

その問題の後始末として、頭を下げて回るのは最悪だった。良いことをしようと思って、それが問題になって、頭を下げている。それが耐えられなかった。同期からの慰めの言葉や、上を糾弾する声も頂いた。そのときは心底申し訳ない気持ちで一杯だった。

しかし、その時に、確かに上の人間なしで実地研修を行っていたら、人的な危険(生命の危険)は起こりうる可能性はあったし、そのような責任問題になった場合に、責任を負う(責任を止める)場所がなく、組織全体の進退が問われるような問題に発展しうる。今になって振り返ってみれば、どうして筋を通してやろうとしなかったのだろうと思う。しかし、当時、その答えを得ることができなかった。上の人間の思想、行動基準、責任範囲を明確に意識することができなかった。

その実地研修の話は一旦は中止になったが、その後、上の人間の管理下の元、再度行うことができた。その場で同期の「やってよかった」という言葉を聞けた。その話を進めてよかったと思った。しかし、この出来事を境とするかどうか分からないが、同期と上の人間の間に溝が生まれた。同期の中には、それほど上手くない人間も存在し、いつも上の圧力を食らっていた。本人には確かに上昇志向はあるのだが、上の人間が「やる気」がない、と判を押し、圧力をかけ続けた。くしくもその人は、俺のゲリラの失敗をよく慰めてくれた人だった。

その上下の折り合いは一時的に回復も見られたが、結局は辞めるという行為にて終わりを告げた。そのときは、上の人間の指導方針に大きな疑問を持っていたし、自分ならもっと上手くやってみせる自身もあった。しかし、当時の上の人間の方々の苦労は計り知れないものがあったと思う。どう指導していけばよいのかの見本もなかったし、当時としては上の上の圧力も相当なものだった(らしい)。

その人が辞めると言い出し、それは連鎖し、自分も辞めることにした。当時は辞めることで抗議になると短絡していた。

そして組織から逃げた。その後、自分に対して、組織の中から変えていくことは出来なかったのかと自問自答し、悔いた。

その出来事から自分が変わったことは、上の許可を取ってまで同期に教えるような面倒なことはやらない、信じられるのは自分だけという行動方針を採るようになったことだ。目立たず、誇示せず、ひっそりと存在する方がむやみな闘争を生み出さずに済むと考えたからだ。

一般的に人間(日本人)は自分から勉強しようと思ったりしない。向上していこうと思ったりしない。自分の持っている優位性を他の人と共有しようと思ったりしない。それを基準の状態と思うことで、それをどうしていけば良いのか、と考える始まりになる。逆に言えば、一般の人間の本質がそうであるなら、それを解決しようとする試みが他所に無数に存在するはずである。自分なりに考え出すことも重要だが、他所も参考にすることも重要だ。そして自分の組織に適用しようと考える場合は、やはり、自分で考えて適する手法を選ばなければならない。

さらに、その手法を行ううえで通すべき筋、根回し、上のコンセンサスが日本では絶対条件になる。上から下を見る場合、上の人間が考えるアルゴリズムは二通りある。1.全て責任は俺が持つから好きな通りにやれ、2.お前らが勝手に問題起こしたら責任は俺のとこに来るじゃないか。基本的にボトムアップな改革を行おうとした場合、この問題にぶつかる。その対処法として取るべき行動は、本質的にはボトムアップの改革だが、良い結果が出た場合は上の人間の成果にするというコンセンサスを得ることだと考えている。

ボトムアップな改革で成功した場合、その中心人物は上の上より認められ、直上の人間にとっては驚異的な存在となってしまう。短絡的には2階級も上にいってしまう可能性があるのだから、直上の人間からはいい目で見られないし、場合によっては潰すことも検討する。そこで提案や企画は下でするけれども指示したのは上だという流れを作ることで積極的に参加させ、チームの成果をあげていく手法が良いのではないかと今では考えている。が、それを試す組織がない(上が頭が固くて、ボトムアップで意識改革が必要そうな組織が)。

そして学ぶべきは上から下をどのように導いていくかである。前述の事件の後、コーチングの本をよく読んだ。プレジデントでもその特集はよく組まれている。教えるという行為、つまり強制的に黒を白ということも重要だが、より重要なのは自分が何に迷い何が見えていないのかを明らかにすることだと考えている。このようなコーチング手法や「自分で考える」という行為も、一般人には知る由もない。知らなくて当然という立ち位置から始めてようやく、という話だと考えている。

自分が何に迷い何が見えていないのかを明らかにするために、自分に特別な知識がある必要はない。その簡単な1つの行為は、相手の言っている言葉をそのまま自分も繰り返して言い返すことだ。相手の言っていることを理解していると見せかける手法としては発言を繰り返すことでそれらしく見える。たとえそれが理解できない内容だとしてもだ。そして、そのことに対して自分はどうしたいと考えているのか、質問することだ。実は相手にはその答えが出ているのだが、深層心理で封じてしまい、出てこないのではないかと思う。それが対外的に質問された場合に改めて明らかになる場合もあると考えている。また自分の思考のラインは自分で明確に追うことができない。自分の発言した内容、コミュニケーションによって引き出されるということが特にある。これを繰り返すことで、相手の問題の5割程度は解決してしまうのだと思う。

本質的に、押し付けた答えを与えるよりも、自分で出した答えを尊重してあげたい。押し付けられた答えは正しいことが多いが、それは自分で判断して良いと考えるに到っているのかが問題だ。そして組織の中で、その答えを出せるのが自分ひとりとなったとき、聞ける相手は居ない。自分で答えを出さなければ、誰も決定できない状況になりうる。その決定ができる人間こそが、決定権限を与えられた人間、つまり管理職たるべきなのである。

管理職のあるべき姿とは、下の人間の環境づくりもさることながら、自分で決定するという権限委譲を利用して、どれだけパフォーマンスを出すことができるかだ。管理職になりたての人間はその権限におののくのかもしれない。逆に権限を使って強制的に動かすのかもしれない。もし部下を押さえつけようとした場合は部下のパフォーマンスが出ないし、決定を上に任せるようでは権限委譲をした意味がない。その絶妙なバランスが重要なのだと理解している。

このように考えるきっかけは、あの事件だった。過信が解けたのも、あのときだったと思う。

そしてあの時には、組織というものに対する経験もなかった。いくつかの組織を体験していれば、良い組織のあり方が分かり、自分が上に行けるまで耐え、上から変えることができたかもしれない、と考えられるからだ(どうせ無理だったかもしれないが)。

これから組織で生きる方々には、「おとなしく生きろ」「おとなしく生きないのであれば筋を通せ」ということをお伝えしたい。「出来なくて当然」「これから経験をつんで行けばよい」「一般人でも到達することのできるレベル」と考える点では医龍に例えると霧島軍司 派。天才は作ろうとして生まれるものではない、天才から学ぶことでようやく一般レベルから逸脱できるようになる。自分より部分的に少しでも上の能力があると思えば学ぶ聞きに行く食い下がる迷惑をかける。しかし決断を下すのはあくまで自分だ。

研修医は間違ってもいい権利がある。研修中は間違ってもいい権利がある。学生には間違ってもいい権利がある。間違っても良い場を与えられている。この後は間違ってはいけないのだから、今のうちに、大いに失敗し間違ってみさない、と最近はうわ言のように言うようになった。うーむ。…最近ジジ臭くなってきた。

色々なことに疲れたら休んじゃってもいいんだぜ!どうせあいつら、さんざん迷惑をかけてきたんだから!も切り札。

そんな感じで組織で働く方々は頑張って下さい。こっちはこっちで無力感で未来がなくて不安たっぷりだけど!自分で考えて、自分で行動して、自分のせいで失敗するのはすんごい楽しいよ!今だけ楽しけりゃいいやってのは典型的なダメ若者だよね!苦しいときがあるから、楽しいときがあるんです!なんか最近地震多いね!東北沈むんじゃね!おやすみ!

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