どんな手段を使ってでも

今は、久しぶりにあの頃に戻れている気がする。夜に眠れないときに、考えてしまうことがある。今回は「どんな手段を使ってでも」という言葉についてだ。

脳内言語をそのまま出力したものだから。気持ち悪くなったら、この先は読まない方がいい。

俺も読まん。

「どんな手段を使ってでも、あいつを蹴り落としてやる(殺してやる)」と映画、漫画、その他フィクションの話ではよくある。大体そんなとき、悪役は陳腐な手段を使って主役を落とそうとするが、主役はそれこそ”どんな手段を使ってでも”問題を解決してしまう。そんな時、賭けているのは命か栄光ある未来とか、そんなものだ。

最近、いや、ずっと前からかもしれないが、目標を成すという手段のために、「どんな手段を使ってでも」という基準で物事を見れば、視界が広がることに気がついた。それは合法、非合法、人権的、非人権的、人の迷惑を顧みない、そのレベルの基準だ。

以前にも人に迷惑をかけることを躊躇するな、とある意味、逸脱したエントリを書いた。そもそも、人にやっていいことの限度は”人に迷惑をかけない”ことがラインだ。しかし、彼らがいずれ、その道を歩いていくと死んでしまうだろう場合に一時の迷惑をかけて止めることができるだろうか。説得すればなんとかなるという話もあるが、密室の毒チョコレートの状態では説得などできない。

大体、そんなことはどうでもいい。極限までたどれば人間は利己的に自分だけ良ければいいはずの存在であるのに、なぜ自分の幸福のための周りを巻き込んではならないのか。相手にアクションさせるためには、まず相手が幸せになることを信じ込ませなければならない。それは偽善で、最終的には自分が幸せになるための、利用する、利用されるの関係だ。

極限まで突き詰めればその程度の関係なのだから、「どんな手段を使っても」いいはずだ。

自分の命が刻一刻と削られている状態で、礼儀やマナーを重んじられるだろうか。カンダタの蜘蛛の糸の話にあるように、自分の命に価値を感じていない奴でもないかぎり、蹴り落とす。そもそも資本主義というやつは、力の暴力を金の暴力に置き換えたにすぎない。皆、勘違いしている。そんな生易しいものじゃない。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、衣食のレベルは人によって違うはずだ。生きているのに生きていると実感できていない奴に礼節など重んじられるだろうか。

いい時計だろうが、いい服だろうが、そういう話には飽き飽きしているし、今までの経歴や知識がこれからの未来にどう役立つかなんて、誰も保証できない。誰も保証できないからこそ、自分で信じるしかないんだろうが。だから自分を信じられるかどうか見つめ直す時間ってやつが必要だ。見つめ直していると涙が止まらないし、震えも止まらない。どうしてこんなに小さいんだろうと思ってしまう。あの時に諦めてしまったんだろうと思う。もっといい方法を思いつかなかったのか、と。

きっと、その心のタガを外してしまえば、戻れなくなる。失うものは何もないという本当に、そんな状況に追い込まれる。しかし、手のひらを見て、そんなものを持っているのかどうか疑問にも思う。人間関係、血縁関係、学歴、実力、金、そんなものが大切か。

いや、何を目指しているのかも分からなくなってきている。その幸せの形は誰に教えてもらった。誰に洗脳された。他人が幸せだと思うから、自分も幸せだと思うのか。誰もが違う音楽を好きなのに。社会によってある程度の幸せの形が作られている。その形にハマれば幸せだと思っている。そうか、それは幸せだね。そう言える。

もっと混沌としている。考えている以上に。

いつ、そのような状況に追い込まれるのか分からない。時期的にも。それは突然やってくる。その時に何ができる?今のうちに、いや、生まれてきたときから牙を磨いてこなければ、その時に生きられないじゃないか。それでもいいのか。そのときに「何もできずに」落ちていくのか。

研ぎ澄ますことだ。経験も知識も関係ない。死に物狂いで何ができるか考えらえることだ。人間も情報も自分もすべての関係物を巻き込んで、地獄に行進することだ。そうでもしなければ、どう助かるっていうんだ。

相手が茹でダコになるくらい激怒したって、それはその場限りじゃないか。どうしてすました顔をしてそんな所にいられるんだ。動かなきゃどうにもならないじゃないか。自分一人で何をやっても変わらないって、そりゃあ当然だ。だったら、誰も彼も狂わしてしまえばいい。皆が狂ってしまえば、「狂ってないこと」が異常になっちまう。そうだろう。

どんな手段を使ってでもってことはそういうことだ。金を使って相手を動かすのを「社会的にいい話」にした言葉がビジネスってやつじゃないか。金も手段だ。

この世は平等じゃない。生まれた時点で差がついている。チャンスの量にも差がついている。だが、もっとも重要なのは、どんな手段を使ってでもチャレンジしてきたかどうかだ。それこそ迷惑を顧みず。生まれたときから差がついているんだから、そんなことをやっても構わないだろう。何を迷うことがある。

なぜ、目にそんな力がないんだ。ルールが間違っているということに気づけよ。ルールって奴は既得権益だ。決めた奴が有利になるようにできてるんだ。でも時間とともにルールは「誰も幸せにしなくなる」。誰も幸せにしないルールなんて必要あるか。だったら新しいルールに書き換えちまえばいいんだよ。なぜ誰も幸せにしない、既得権益だけを幸せにするルールにしがみつく必要があるんだ。何よりも、そのルールじゃ自分が幸せにならないだろうが。

もう椅子とりゲームは終わってるんだよ。生まれる前から。椅子は奪うか見つけるか作るしかないんだよ。自分が生きるには。生きるか死ぬか決められるのは自分なんだよ?自分のことをもっと考えろよ。自分の事を悲しくなるくらい考えてみろよ。考えれば考えるほど、思ったよりも自分は必要ないことに気づくはずだ。

そう、必要ないんだよ。結局のところ。

自分の事を何よりも必要としているのは自分だ。自分に意味をつけるのは自分だ。自分に価値をつけるのも自分だ。過大評価だろうが、過小評価だろうが、自分を評価しなきゃ何も指標にならないだろう。自分の大きさだろうが、小ささだろうが、自分を見つけなきゃ何もできないだろう。

自分を見つけたら、自分ができる、すべての手段を思いつくんだ。ここまでくれば、その手段はどんなものか分かるだろう。誰も彼も巻き込んで、ヤっちまうんだ。思いつく限りのシナリオで。それで誰がどうなっても。自分だけの正義を信じるのであれば。正義は人それぞれだから、遠慮することはない。突っ走っちまえば誰にも分からない。

そういったものが足りない。イっちまった人間っていうのは、飛んでしまった人間っていうのは、そういうものだろう?そして、生きているうちにやらなきゃ意味がないんだろう。

守りたいものがあるとする。失うものがあるとする。人間関係、血縁関係、学歴、実力、金、社会的地位。彼らは、どんな手段を用いてでも奪いに来るだろう。そうしてきたらどうする?

いや、すでに奪われているものと気づきはしない。社会というものを作り出すことで社会的地位の優位性はすでにある。家庭は素晴らしいものだ、それさえあれば他に何が必要だろうか、年寄りは大事にしろ、それは儒教だろう。宗教ってものは弱者を弱者の枠にはめるためにある。弱いから神を頼る。神の存在を信じる。死者の魂を弔う。墓参りは、生きる人の心の整理のためだ。葬式の礼儀なんてそんなもんだろう。

先に生きた人間の優位性、先に生きたという事実、先に経験したという事実が、後に続く人間にそれが正しいと信じさせているんだ。生きた証というものは、彼が生きた証明なのだから、意味があることだと、無意識下で悟らせる。

だが、過去の知恵が、今から先の未来の時間軸までに有効かどうか分からないだろう。有効である確率は高い。高いが完全ではない。なぜ、それを疑わない。なぜ、仕組みがそうなってきたのか辿らない。仕組みが出きるまでには過程があって、様々な要因を複合してそれがいいと決まったはずだ。そんなもの時代が変われば、ルールが変われば違うはずだろう。いつまでもそんなものにしがみついているのか。

朝、目が覚めて生まれる。今、目を閉じて、開けた瞬間に生まれる。次に目を閉じたときには目は開かないかもしれない。それが死だ。でも開くための出来うる手段を講じるのが生きることへの執念だろうが。なぜ、諦めてしまうんだ。なぜ終わらせてしまうんだ。

今、目を開いているんだろう。考える頭は持っているんだろう。知らなければ調べたり、聞けばいいじゃないか。その場その場でいいんだよ。

可能性に満ちあふれているじゃないか。それを知ってしまったら、それをヤってしまったら、もう後戻りはできない。恐怖だ。

しかし、「何もしない恐怖」を感じないのか。やんわりと首を閉められているような感覚を。時が過ぎれば過ぎるほど、何もできなくなってくる感触を。可能性が閉ざされていく感覚を。誰かに錯覚させれた、守るべきものという存在を。

神という存在があるなら、無慈悲に奪うだろう。

ただ、この手を見る度に無力に涙する。救える可能性はいくらでもあった。壊れてしまったら、戻らないものもある。でも、遅かれ、早かれ、壊れるん。それが、すっごいゆっくりか、早いかだけの問題。だから、ひとときは大切にしなきゃならん。

ただ、何もしないで、奪われていくのを気づかずに、奪われた瞬間に泣き喚いたって。怒りを覚えたって。だって、もう、空っぽだったんだよ。器しかなかったんだよ。その器が壊れたからって、壊れてから、そう言われたってどうしようもないじゃん。

その程度しか見ていなかったってことなんだよ。騙し騙し、その場をつくろってきても、実際その時はくるんだよ。失った後にやれることは、腹いせに奪うことか、諦めることしか、もしくは自分が壊れてしまうか、新しく作ってしまう他ないんだよ。

なのに、何が安定した生活さ。もう、壊れ始めてるじゃないか。

今ならまだ間に合うんだよ。意地の張り合いなんだよ。自我の。やりたいことやらないで、どうすん。幸せにがんじがらめになっていくんよ。

幸せならいいんよ。それで幸せなら。ただ、その幸せは規格外のやつに奪われる可能性がある。ルールを変えてしまうやつ。既得権益を奪っちまうやつ。寄らば大樹を切り倒してしまう奴。壊し屋。世界規模で、市場主義がグローバル化すればするほど、奪える可能性を持ってる奴は飛躍的に増えるんだよ。

今までの幸せは、そういう人々の上に成り立っていた。奪いたくても奪えない。チャンスもない。奴隷。いや、奴隷は自分が奴隷であることを知っているだけ幸せで、より不幸だ。圧倒的に低いレベルの幸せを信じ込まされた奴等が働いて、一生懸命に働いて、そういったものを国家的に吸い上げることで、相対的に幸せの域にいるんだ。自分の幸せと天秤に不幸と気づかずに生きている奴はいる。

情報格差を減らすっていうのは、そういうものの垣根をとっちまうんだよ。幸せを伝えちまうんだよ。同じレベルの仕事のチャンスを与えてしまうんだよ。自分らはそれでいいの?同じことができる奴なんでゴマンと増えるよ。

自分らを守るためだったら、そんなところに情報与えちゃだめだよ。自分の幸せがそういう所から吸い取ったものだと理解するべきだよ。まだまだ裕福なんだよ。足りすぎてるんだよ。だから、新しく欲望を定義していくんだよ。欲望を作らなければ、すぐ飽きられてしまう。

本来、無価値なものに価値をつける。価値のあるものを無価値にする。そういったもので泣いた人、喜んでいる人、結構いるでしょう。周りに。自分かもしれない。よく踊る。そんなものに。

信じ込ませることが大事なんよ。で、相手が疑問になっても、騙されたと思っても、自分が大丈夫なように。そういう高い所から見ている奴はいるんよ。

生きているだけで奪う。それは地球が出来たときから変わらない。与えることができるか?今、自分が奪っている対象にすべてを返したら、生きていけない。生きること、そのものが罪だから。それも宗教的に言葉があったよね。その始祖は気づいてしまったんだよ。

市場主義は金による殺し合いだよ。それで首を吊った人間もいるでしょう。使えなくなればポイ。時代、分野、場所によって使える人間は違うから、適合しなければポイ。それはもう、あっさり。ちゃんと、そういったものを排除するシステムも出来てますから。

寄り添って生きてきた人の場合、どうにもならないよね。新しい寄生先を見つけない限り。誰にでも魅力的なものを持っていたら大丈夫だけど、誰かにしか魅力でないものだった場合、どうしようもないよね。だから、そういった関係は尊いんだ。最後には、自分か相手のどっちかが倒れちまうんだ。それまでよろしくやるってのがいい。やってけなかったら、別のを選べばいい。別のがダメだったら戻ればいい。

どんな手を使ってでも、それを出来る状態でなければ、本当に守りたいただ一つのものだって、守れやしない。そういうのを考えるのを避けるように出来ちまってる。推奨されてる。考えない。自分がなぜ生きているのかも。どのような仕組みによって生かされているのかも。

まだ、やる気があるなら、手段を考えるべきだ。リスクはあるだろう。ただし、何もしないリスクに耐えきれるか。

「戦略的に何もしない」のなら意味はある。

何も考えず、流れに身を任せて、寄らば大樹が切り倒されたときに、「大樹が悪い」と叫んで終わりにしても、それで全てを奪われても、納得できるならそれでいい。今すぐ、奪ってやる。今、持っている全てのものを差し出せ。だって「大樹」が悪いんだろう。そのせいにすればいい。さあ今すぐ出せって。理不尽だろう?そんなことは。

大樹から吸い取っているならいい。いつか果実となって、種子になって、新たな木になろうとしているならいい。いつでも大樹を離れられる覚悟があるならいい。それならば大樹に奪われる前に離れられる。可能性はある。

大樹をつくろうと思うことは、それだけの覚悟が必要だ。頭が回っちまうと、背負いきれなくなる。大樹から出来た種子は、おおむね大樹と同じ性質を持っている。だから、大樹が倒れたときには、同じ弱さを持っているんだから、倒れやすい。

変異したものが残る。それは先天的だろうと、自発的だろうと。その時には。

もちろん、その時は来ないかもしれない。でも、歴史を学んだだろう。その時、歴史が動いたことを。知っているだろう。素の時代ごとに、どんな手段を使ってでも、やってきた奴等がいるだろう。

その力を得るためにここまで来たんじゃないのか。なら、なぜここに来た。目覚めたかったからだろう。知りたかったからだろう。出来るようになりたかったからだろう。手段の幅を広げたかったからだろう。

誰も彼も可能性はあるんだよ。ただ、それに気づかない。それを行使しようとしない。

ただ緩やかな死に気づかずに、穏やかな死という幻想を以って、向かっているだけ。そりゃ、誰にも理解されないさ。なぜなら、究極的には自分自身しか信頼できないんだから。それが人のためというベクトルに向かっていようがいなかろうが。

アインシュタインは気づいた時には、夢の発電装置ではなく、悪魔の方程式を作ってしまった。それは理解しようとする人間の利害関係、好ましいと思うか思わないかに過ぎない。

だから、手段として行動を起こすときに、人間を巻き込むときに、相手にとって利があるかないかは重要だ。捏造してでも相手に利を作れ。金だろうが、金じゃなかろうが。特に相手に、自分が相手と同種であると思い込ませるのもいい。いい服を着て。いい時計をして。

そうして奪い取れ。

サバイバルだ。この世は。

どんな手段を使ってでも。

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