最近人はなぜコミュニケーションした方が良いのかについて考えている。
以下はその例。例えば製品開発の場合。
将来には○○が普及すると思うから○○の上で作ろうという大局観と、××の機能を実現するためには○○の上で作った方がいい(○○でしか作れない)から○○で作ろうという小局観の2つの方向性があるように思えてきた。
どちらも言っていることは似ていて、小局観にて○○というものが評価されているから大局観で○○を採用しようとするのだが、どこからともなく○○が普及するという情報をitニュースで仕入れてじゃあ○○で作ろうかという場合もなきにしもあらず。
言いたいことは、ベースとなるものを他のものとあわせることによって大量生産&かかわる人の多さから目標が成しやすくなる方向性にあるものと、ただその小さな機能がとても重要だと信じていてそれを実現するためにはベースになるものはたとえ少量だとしてもそれでなければならないというこだわりといった方向性ってものがあるということ。見る限り、人はどちらかの方向に傾いていて、お互い違う方向に傾いている人間同士が集まり議論を経ることによって総合的に良いものが生まれていくのではないだろうか。
遠くから眺めていると、大局観も小局観もどちらも難しい。ゲーム機の話をすれば大局観はハードでWiiかPS3か、小局観は多様なソフト。携帯の話をすれば、大局観はLinuxかiTronかAndroidかiPhoneかで小局観はその携帯で何がしたいのか。人の話をすれば、大局観は最終目標を何にするのか、小局観は今何をするべきなのか。
まだ、自分の中でまとまっていない。