初見と説明と名前

メモ。

初見において、見たもの聞いたものがどのように理解され、伝わるのか、という点に重点を置く。すなわち、製品が出る前に何もコメントせず、開発風景も見せず、発表会で突然出す。それは驚きを持って迎えられる。それは驚きのためだ、と普通は考えるが、それよりも初見における認識の方を大事にしているのではないのか、と考えている。

特に、それは革命的なものを目指す限りにおいて。多くのユーザーに会社としてのブランドを認知されていて効果が大きい場合において。

開発風景や断片的な情報を出していくと、最後に出た製品が、割とコレジャナイ感漂うものになっているときがある。期待していたのにどうしてこうなったtegra2みたいな。それは期待させるためのチラ見せが原因であり、完成するまでに見せなかったらガッカリは存在しない。

また、断片的に出した情報から憶測でどのように使われるのかを想像されると、最終的に出てきた製品の認識と食い違う点が出てくる。そのときに、憶測で焼きついた使い方から、出てきた製品の使い方への認識の転換が難しい、という状況が出てくるような気がする。

途中で出てきたものと最終的に出てくるものが違う、その確率が高い、とはどういうことか。それは、ハード的な変更ではなく、ソフト的な変更、概念と認識を最後まで検討しているからではないか、とも思う。

コンセプトは開発段階の以前に存在しなければならないが、開発終了時点において再構築され、製品がより分かりやすくなる余地がある。より分かりやすくなる余地、その取っ掛かりになるのが、概念というかその製品の認識のさせ方というか。

それを製品が出来上がる直前・直後の最後まで検討していると、製品のチラ見せで、それが使われるべきシーンだとか使うべき人だとか、そういったものが混乱していて、混乱したものを見せてもしょうがないという。見せたとしても、最後には話が違っていて、なんだか色々あったんだな、と。

これを作っていますと素直なもの、アップグレード的なものを作っていて、いついつに出せるという話であれば、それはぜんぜん構わない。それが戦略的製品だったり、革命的製品だったりを目指すのであれば、もちろんコンセプトを最初に出して世間に問うことも大事だろうけれども、自身を信じて最後まで抱え込むのも、また1つのやり方なんだろうな、と。

使い方の不明瞭な製品、今までに使われたためしのない製品、相手にとってどう意味があるのか明確に説明できない製品のコンセプトは、最後の最後までよく検討される必要があるんじゃないのか、ということ。説明的なもの、概念的な図なもの。その認識のされ方でガッカリされてしまうこともあるんじゃないか、と。

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