メンタルコーチング
はコーチングを受ける側の情報の整理を手伝い、異なった視点からみるチャンスを与えるなどして、気づきを待つ
スキルコーチング
たとえばスポーツのコーチのように、コーチングする側がその分野に対しての知識とスキルを持ち、それをベースにして個人のスキルの向上を目指すことができる。目的がはっきりしていること、より適切な課題を設定できることから、メンタルコーチングと比べて大きな効果を期待できる
by wikipedia。おおむね同意。
前者のメンタルコーチングは、「自力解決できる・結論が見えているが迷いがある・情報整理できていない」解決能力があるが解決に到っていない対象に行う。
後者のスキルコーチングは、「どうやり始めたら分からない(勉強の仕方が分からない)・その世界の概念が分からない・その世界の思考のラインが分からない」にように、自力解決できない・あまりにも時間がかかる対象に行う。
前者の場合は、話を聞き、その話のみによって理解し、その話に存在する論理的矛盾を突いて核心に迫る。
後者の場合は、分からない問題点を明確にし、自分の思考のラインが辿った道を、言語的誘導によって対象に辿らせる。別の価値観、概念の世界を見せる。結論をすぐには出さない。しかし、相手の能力によっては結論をすぐに出した方が良い場合もあるかもしれない。
ということを考えていて、
もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのに
しっぽのブログ: 技術を教えてくれた先生
Kuwako-Lab.com » マインドマップを用いた授業の作り方
といった、学校教育においてテクニック(スキル)を伸ばしたらどうか、という議論を読む。
学校教育の教科書は摩訶不思議な本で、その本だけで自学自習できなかった覚えがある。その文章から何を感じるべきか、どうやって問題を解決するべきかが書いていなかった気がする。指導(教育指導書?)がなければ、解決できないような問題が多かった気がする。この手法の場合、指導者のスペックに大きく依存する(といっても教科書に解決方法が書かれていても上手くいくかどうかは分からない)。
よく分からないけれど日本の教育(こういう言い方は好きじゃない)では粒のそろった平均的な能力を持たせるような出来上がりになるのは、指導ありきの教育方針だったからだろうか。まだ、よく分からない。
企業内教育では仕事上で学ぶ(OJT)か、仕事外で学ぶか(Off-JT)が分類される。基本はOJTで教育をするべきだが、皆がみな、(上司として)部下教育を上手くできるかどうか限らない。よって、Off-JTを開催する。社内で最も教育が上手なものがOff-JTを行うことで、教育の粒をそろえることができる。教育が上手なものが存在しない場合は外注する。
学校教育では目標が仕事ではなく教育なので、教育のための教育を行っていくことになる?結果的に学んだものが何処でどのように役立つのか、分からない。モチベーションが上がらない。勉強のための勉強になる。だからといって、仕事のための勉強という言葉を挙げてもいけない。それぞれがどのような仕事に就くのかも分からないのだから、難しい。
ということで、大学ならともかく、小学校教育にて「自分で考えろ」(メンタルコーチング)という教育がメインなのはなんでなんだろーなー、と思う今日この頃。確かにこの方針は興味深いし、何らかの意味があると感じている。
指導者に全ての基礎能力を教育できる能力(例の賄賂ですな)がないから、というのは無しの方向で。
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