iPad、利用者の知性を問うデバイス

iPadというデバイスは利用する・導入する人の知性が試される。使いたいシーンありきの製品なのだ。例えば、料理中にレシピを見たり、数百の楽譜を持ち歩いて譜面台に載せたり、あるいはショッピングセンターのカートに取り付けて会場案内に利用するのもいいし、居酒屋で注文システムに用いてもいい。そういった知性を問われるデバイスであり、シーンが浮かばない人は買わない・買わせないように環境を整える。そうした美学の塊なのである。

このため本稿では、リテラシーが低い人のための製品という位置づけよりも、知性的で利用シーンを作り出せる人が買うべきものだと位置づける。もちらん、リテラシーが低い人の中にも知性的であるケースはある。(両親、祖父母に写真を見せたいという用途であれば、ソフトバンクのデジタルフォトフレームを利用する方がメールを送信するだけで写真を追加できるので適している場合がある。)

iPadから滲み出るこうした美学は、中途半端な製品を手渡して何にも使えず捨てられていく体験をさせたくがないために、の心の上に成り立っている。Macの、Appleの、そしてジョブズのDNAを受けつぐiPadとは、そのようなものなのである。よって、批判のないApple製品は、Apple製品ではない。何かを得るためには何かを切り捨てなければならない。そうした誰にも出来ない切り捨てが行われる製品こそが、Apple製品なのである。

Macユーザーの創造性とはなにか、ゼロベースでの本当に人のことを考えたものづくりとは何かを考えることは、「iPad」を学べ、「Apple」を学べに尽きるのである。そうした知性を問われるデバイスが—「iPad」なのである。

–終わり

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