ネガテイブ

仕掛けておいた策が片っ端から崩壊するし、目処をつけていた計画も時流の読みを誤って方向転換を余儀なくされるし、考えるより先に動いた結果は残らず荷物を背負うことになるし、動機付けが霞むほど決断が鈍っていくし、プラス分がゼロになったかと思えば実はマイナスに突っ込んでいたり、流されるままに流れてきたらそれが本心なのかどうかも分からなくなってきたりで、もう踏んだりけったり。

何処に居たいか決着が付かないから、居るべき場所に行くことにしたのに、願望との剥離が開きすぎてどうにもならなくなる。何でも出来ると信じることは大事だが、それは自分が進んでやるべきことかどうか精査することが必要であったのではないか。後悔するときは決まって、考えるより先に行動し時間を無駄にしたことへの悔いか、行動するより前に考えすぎて何も出来なかったことへの悔いか、いや、行動のベクトルを誤っていたことへの気づきの悔いか。

そう、結論は、ニートとは、自分を追求することで、そのために全ての方法論を用いることだ。生きて追求できるのであれば、それ以外に何が必要であろうか。未来への投資は不確実だ。社会への奉仕は必要か。結局のところ、それらは前提、建前でしかあり得ない。計画を立てようが、投資をしようが、自分を追及していかなければ、人が個である理由がないし、自分である必要もない。

そういったことを考えながら、そういったことへ踏み込めない自分に腹が立つ。その決断を5年前、いや生まれたときから出来ていれば、そういうことで悩むこともなかった。でも、そういうイラつくことも含めて今の自分なんだろう?やらなきゃ何もできないし、やっても後悔しかのこらない。それでも生きていくということを腹から出たときに決めたんだから、全て納得済みのことだろう?

そういう世界なんだよ、ここは。自分のした決断に後悔していることに腹が立つ。決まって、決断には後悔しない、ってことが必要だろうが。いや、決断に後悔してもいいのか。足りないのは諦観なのか。

いや、やはり、以前の決断に対して後悔することが間違っているんだろう?今、信じるものが変わったなら、今、決断すればいいのだから。

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