本質と表面上の事柄とマニュアルとパソコン雑誌

例えばメモリを増やしたりHDDを速いものにしたり、CPUをメニーコアにしたり、起動するアプリケーションの数を制限したりなど小手先の手法はいくつかある。これらの共通点をくくると、パソコンの動作を早くしたいという要求が利用者にあることが分かる。この共通化されている要求を捉えてPCを速くする為にはどうしたらよいかという特集が雑誌で組まれることが多い。

しかし、真の要求はどこにあるのかを追求するならば、PCを速くすることが真の解決方法なのか?なぜ速いことを望むのか?という点にまで気を回すことになる。

利用者は漠然としたパソコン利用時点において、時にアプリケーションの動作の速度に不満を感じ、もっと早く動作を行いたいと思う。もしくはより早いパソコンを利用している友人に対する嫉妬心からもっと速くしたいという意欲を持つのかもしれない。そうした意欲は幻想なのかもしれない。

もっと上位の概念にさかのぼれば、利用者はパソコンの利用において、既存のアプリケーションのさらなる高速動作を望むのか、アプリケーションのより詳しい利用方法を知りたいのか、他にやってみたいアプリケーションがあるのか、自分の思いつかないアプリケーションを提案してほしいのか、という様々な要求にあたる。パソコンを高速動作させたいという要求は”既存のアプリケーションのさらなる高速動作を望む”場合の下位の解決方法であり、別の下位の解決方法としてはアプリケーション自体を高速なものにするというものもある。

さらに上位にさかのぼれば、パソコンが本当に生活に必要かどうかの問いを行うことになる。そうしたとき、パソコンの存在は目的のための手段となる。パソコンが目的ではなくなる。

その業界に存在することで、その物事を前提とする考え方をしてしまうことが多い。その考え方は正しいし、効率的だ。なぜなら、他の検討項目を考えてしまえば、自分の提供するものの価値がなくなってしまうかもしれない、価値がないことに気がついてしまうかもしれないからだ。それを発端として危機意識が薄れていく。ブランドとマニュアルさえあればどうにかなると思えてしまう。

マニュアルとは、表面上の事柄をあつめた教科書であり、通常、本質のようなものが書いてあっても理解はしにくい。例えば数学の教科書に公式が載っているが、練習問題なしに公式の真の意味を理解できるのかと問われれば難しい。その公式自体が幾多の練習問題の上に成り立っているのだから、理論だけを見て理解できているのだすれば、その人の人生経験が豊かで既に経験済みであるとしか言いようがない。

人が働くということは、ほとんどの場合、顧客が存在するということであり、サービス享受者である顧客の立場に立った考え方をしなければならない、ということは口をすっぱくして100万回くらい言われているだろうが、そのような本質を100回云われようが本質のみによる理解は難しいのだろうと思う。重要なことは、練習問題を解いているうちに公式を思い出すというプロセスなのだということ。そして練習問題とは、普段何気なく見ている風景にこそ存在しており、特別なものではないということ。

よって、どちらにせよ普段から本質をすえて物事を見なければならず、100万回くらい云われないと普段から意識して気づきの状態になれないのかもしれない。

ということを、パソコン雑誌を本屋で見ながら、パソコン利用者は何に不満を感じているのだろう、なぜパソコン雑誌というジャンルが存在しているのだろう、と疑問に思ったりした。パソコンを利用して目的を達するというスタンスというよりも、パソコンを使って何をやろうという楽しみ方のスタンスの方が、一般には多いのかもしれない。パソコン雑誌の本質は何なのだろうか。

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