商業主義という言葉が気になったので調べてみた

商業主義という言葉が気になったので調べてみた。

商業主義という言葉に対して負のイメージと共に用いられる用語であると感じている。個人的に、その逆の言葉、非商業主義(反商業主義)的なものが存在するのかどうか、気になったからだ。

非商業主義に近いスポーツでも、商業主義なプロという世界が存在する。オリンピックも商業主義に染まってしまったという嘆きがある。それでは非商業的で有名なスポーツ、スポンサーの存在しないスポーツはあるのだろうか。とても面白い思考課題だ。

調査結果

まず先にwikipediaを調べてみたが、商業主義という言葉は記述されていなかった。

いくつか見つかった検索結果を紹介する。
商業主義について・・・ – Yahoo!知恵袋

今日、いたるところで(知恵袋でもそうですが)商業主義という言葉を耳にします(見かけます)。

特定のアーティストを批判するときに用いられる常套句のように見受けられますが、これがどうもしっくりこない。

あとは、明らかに売れるために不本意な音楽をやっていた、やらされていた人たちも多いです。
全盛期のスピッツ、WANDSなどがそれに当てはまると思います。
彼らは、売れてから元の路線に戻りましたが、逆ももちろんあります。

金儲け主義と拝金主義と商業主義と資本主義はどこが違うのですか? – Yahoo!知恵袋

金儲け主義と拝金主義と商業主義と資本主義はどこが違うのですか?

御回答よろしくお願いします。

あらゆるものが「もうけ」のためにおこなわれるのが「資本主義」社会の特徴ですが、
たとえば文化活動や福祉ボランティアなどは、そういう資本主義の精神からは独立しているようにみえます。
それだけは資本主義に侵されてはいけない、というわけですね。
しかし、文化活動や福祉の活動にも「もうけ」が入り込んでくることがあります。
歌手の歌、などはそうですね。
このように本来「もうけの論理」に侵されてはならない領域がそれに侵されるときに「商業主義」という言葉を使います。

これらの意見を元に商業主義について考えてみる。

例えば「なぜ音楽を売るのか」を考えると「利益を得る」ためである。「利益を得る」のが「資本主義」の目的であるから、「利益を得る」ために歌手は歌を歌う。利益をより多くするためには、利益が多くなるような歌の歌い方、曲の作り方が必要だ。そのような曲は元々は歌手自体が歌いたいと思っている音楽ではないかもしれない。だから、「商業主義」に侵されて売れる曲ばかりを作るようになる。

インディーズ、もしくはデビューしたてのバンド・歌手が、時を経るごとに、”変わっていく”ことが、それなのかもしれない。

別の資料では、クリスマス・イヴについて、

ベネディクト16世は、『現代の消費社会の中で、この時期が商業主義にいわば「汚染」されているのは、残念なこと。』と発し、降誕祭の精神は、「精神の集中」と「落ち着き」と「喜び」であり、この喜びとは、内面的なもので、外面的なものではないとしている[3]。

としている。

個人的な意見では、日本に限定すれば、商業的でなければクリスマスは意識されなかっただろうと思う。ハロウィンは限定的なものになってしまったし、逆に商業主義なバレンタインデーについては「日本のチョコレートの年間消費量の2割程度が消費される」ことになっている。

それに対して非商業主義的なものはあるだろうか。例えば非商業主義的な音楽、非商業主義的なコンテンツ。Webの情報は非商業主義的なコンテンツかもしれない。この文章であっても非商業主義だ。非商業主義的なものは意識の外にあるのかもしれない。

面白いことに、非商業的に見えて商業主義なものもある。例えば、ラジオ体操がその例だ。

1925年3月にアメリカのメトロポリタン生命保険会社が健康増進・衛生思想の啓蒙を図る目的で考案され、広告放送として放送されていた(世界初の)ラジオ体操が基となっている。

ラジオ体操とは、各人が健康でありことを目的としたものだが、元々は保険会社が各人に”健康を意識させること”を目的として考案したものだ。生命保険会社は、契約者が生きれば生きるほど儲ける事(支払いを先延ばしに)が出来るため、契約者が長生きすることをサポートすることで利益を増やすことができる(最近では払わないことが問題になっている)。

感想

売ることは難しい。商業主義であれば、どれも似たようなものになる。

この商業主義を調べる本当のきっかけは、”メッセージを込めるなら売れてから仕込む”と、ふと思ってしまったことに起因する。

最近は情報操作・情報統制にも興味があるのだが、どの情報をどの順番でどのタイミングで流すかなどの流れが興味深い。人の心理・思考ラインは人それぞれに異なるが、大衆が共通にするだろう思考がおそらく存在する。その思考に沿って受け入れられるものが商業主義の採用しているラインに近しいものなのだろう。それを調査、プロファイリングする行為がマーケティングだと、今は理解している。

だとすれば、商業主義だと批判を受ける製品・サービスはマーケティングが著しいものであり、かつ、批判を受けるようであれば、マーケティングが未熟で足りていない、もしくはマーケティングの時点で顧客ターゲット層から外された存在がわめいている、ということになるのだろう。

この点については、最近テレビが面白くなくなったと感じている場合の別の角度の考え方をした通りだ。

そういう視点で見ると、世界はもっと面白いはずだ。

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嫌儲という言葉を知っている人に対しては、その考えについて考察した方が、この記事の思考の良い入り口になるのだけれども。

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この記事を書いてから、近しいものを見つけた。付け合せにどうぞ。
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