池田信夫 blog 人類史のなかの定住革命のコメント欄の後半で議論されている国際化による”分業システムの崩壊”が国内市場を縮小し、格差を生み出しているという論が面白く感じた。
技術経営実践スクール2007というMOTセミナーに出て、Amazon.co.jp: モジュール化―新しい産業アーキテクチャの本質: 本: 青木 昌彦,安藤 晴彦という本が宿題として出たのだが、この本でも池田信夫氏が一章、「デジタル化とモジュール化」について書いている。
モジュール化のもっとも分かりやすい例はPCで、AT互換機とPC98を思い浮かべれば大体イメージできると思う。
最近の液晶テレビが安い理由も、アナログからデジタル化したことによって、国際的に部材が調達できるようになり、世界中から安くて良い部材を用いて作れるようになった、とWBSで特集していたが、それはモジュール化によって衝撃を受けた出来事だった。デジタル化することでインターフェースが決まってさえすれば、何処の国でも構わない(うろ覚え)。
そうして考えると仕事のモジュール化こそが分業であり、個々が専門的になることでお互いを補完し、全体として最大の利益を目指すことが分業システムの意義、会社という組織の意味である。しかし、これもまた、世界的な分業の前で崩壊しつつあり、他の国で成り立っている分野から所得が少なくなっている、その分野こそがまことしやかにささやかれる漠然とした格差の正体なのではないか、ということが想像できた。
つまり、国際的分業の前に、力なき既存の産業は市場原則によって衰退するのは当然で、その影響をまさに受けている人々が格差を実感している、と。
この現状を前にして、力なき産業を国策によって救うのが正解なのか、勢いのある産業を伸ばしていくのが正解なのか、もしくは新しき産業を立ち上げていくのが正解なのか。国策が入った産業は不思議な方向に迷走する向きがあり、本当に力のある?産業は国策がなくとも、謎の国民パワーによって成長していく。
NHK”そのとき歴史が動いた”の番組で、国民所得倍増計画を立案した下村治氏がその目的を達したときの言葉、「日本は江戸時代のような姿になるのがいい。文化とか芸術とか教養に力を入れる時代になるべきだ」という言葉を聞いて感動した。そして、”この国の今後の国家的分業の向きは文化にあり、ものづくりは生活と文化のためにある”という結論に自分は至った。
…自分の中でモジュール化による競争で上手く片付けられないのがMacなのだが、信者と文化という言葉で片付けてよいものやら…