任天堂本を買ったので読んでいる。最も気になるのがニンテンドーDSのターゲティングの巧みさだが、岩田氏の弁ではこの通りだ。
今日起こっているような現象を、『いやぁ、前からわかっていました』と言えたら格好いいんですけど、そんなことはない。方向は正しいという自信はあっても、こういうスピードでこういうことが起こるとは思っていませんでしたというのが正直なところです。ああ、物事が変わる時というのは一気に変わるんだなと、逆に感じているくらいで、世の中の皆さんが何をきっかけに大きく反応してくださるのかというのはわからない
つまり、正しいと思う方向に舵をきったのだが、それが成功する絶対の確信はなかった、ということではなかろうか。
クラウン開発者の中村氏の
開発は夜行列車の運転のようなものだ
先が続いているかどうかなど、誰にも見えない
という言葉を思い出す。漢語録 漢の名言集・名台詞集 プロジェクトX。
ハイスペック化、操作性が複雑化していく中で、任天堂の出すゲーム機は操作性が簡単(直感的)で今までにない新しいものを作ることが課題だった。その結果、山内氏が「2画面や・・・」と言い残したのをヒントにニンテンドーDSが開発された。
操作性が複雑化していくことで、コアゲーマー以外のユーザー、つまり新しいユーザーや女性層が購入しにくい、という印象が付きまとうようになる。結果的に購入者である「お母さん」に嫌われてしまうゲーム機になってしまい、購入を抑制されてしまう。それを解決するために、誰でも簡単に利用できるという操作性が課題となった。
この話を読んでいて、関連性があると思ったのは、ケータイ小説やライトノベルという文学についてだ。ケータイ小説については、第3回日本ケータイ小説大賞「あたし彼女」を気合いで一気読みした感想くらいのものしかないし、ライトノベルは読んですらいないので、この直感は間違っているかもしれない。
現在の文学における小説の課題は、その小説の文章量を読める人が少なくなったことにあると仮定する。小説を始めとする文学は「行間を読む」という言葉があるとおり、文字と文字の間から風景を、文字の使い方から情感を読み取る力があって始めて楽しむことのできるものだと理解している。つまりコア読者しか楽しめない世界になっている。
コア読者のみを対象とする文学しか存在しない場合、新しい文学読者が入りづらい状況になる。娯楽として楽しむのに解釈が難解であるものは、すぐに諦められてしまう。入り口となるエントリーモデルでは、すぐに解釈できて話もそこそこ面白いものが必要とされていた。エントリーモデルをクリアしてもらえれば、少しずつ高い壁を越えることも可能になる。そこで誰でも読むことの出来る文学としてライトノベルを、誰でも何処でも読むことの出来る文学をケータイ小説として認知するに到る。
このケータイ小説に対する批判は、国語力の低下=学力低下の一旦として取り上げられたり、スイーツなどとして馬鹿にする風潮がある。しかしながら、この流れと言うものはニンテンドーDSの目指した、「今までゲームを行っていない人へのアプローチ」と非常に似たもののように感じる。ケータイ小説への批判を同じようにニンテンドーDSに行うならば、”ゲーム力の低下=製品理解力の低下=脳力の低下”、”目が悪いから高画質じゃなくていいんじゃないの(笑)”であり、やはりスイーツ(笑)だ。
しかしながら、ニンテンドーDSはゲームそのものの面白さを再発見することに注力し、誰でも購入できる価格に抑え、世界でバカ売れしている。この流れがケータイ小説にも当てはまるとすれば、ケータイ小説は”文学そのものの面白さ”を再発見することに至り、また誰でも読むことが出来るので文学の解読力の向上、文学の再発見に至るだろう。
このように世の中で価値の再発見を促すような文化、サービス、製品に対して目を向けてみると、非常に面白い。格安のノートPC、格安の24インチディスプレイ…。高度化して複雑化した娯楽に新しいユーザーが入りにくい分野がいくつかあるのかもしれない。そうした目を持てば、評判などの雑音を一度消して、素直に考えてみることで、また1つ世界が面白くなるはずだ。